状況は、むしろ悪化している。
「それ”ゾンビリベンジ”じゃないよね?」
そう言われると、ぐうの音も出ない。
「まあ悪くも無いんじゃない?」そこに至れない。
徹底的に否定する、そっちの方が、クリアに近い。
「このゲーム創った奴らは阿呆の集まりだ」消えろ、クズが。
この位の否定を向け続けないと、クリア出来ないのだが。
…それは、ちょっと。
微妙なモノもある。つまりシナリオ的にはこういう話。
その時、主人公?側は、殺される側で良いのか?と言うか。
「それは良くない」なら?何とか相手を止めねばならない、訳だが。
しかし、逆に補正したモノは、”これ”をむしろ強調してしまわないか。
「中華思想の皇帝」側が、或いは創ったのだ、このゲームは。
そして、市場からはほぼ全否定された。凡百の、有ったか無かった解らない、そんな一本でしかない。ヒット作には程遠い何か。
”それ”を、実は皇帝が関わって作っていた?としたら、それは大問題?ではある。
「面白くない」市場的にはそう言う評価。内容的にも、実は容認し難い何か。
真実的にはそうでも、意識的には逆ではある。プレイヤー側が、その「劣等感を拗らせて、相手を殺してしまう」側だ。それの正義を肯定し、自身のしている事を世間に認めさせる。或いはそのままでは、そんな内容。
補正すると、そこが或いは逆になる。
自分の前にトランプ大統領が居る限り、私は大統領はおろか州知事にさえ成れない!的に、トランプ大統領を暗殺しよう、奴は邪悪だ!そんな内容のシナリオに、中々同意すると言うのも微妙。
当時の現実ではあり、そう言う内容に満ちていた当時の創作が、総じて「あかん感じ」なのも、それは至極当然の結果ではあり、彼らは結局、現実?には今も勝ててない訳だが。しかし何かの無念、執着?それは消えず、向こうから妙な呼び声としては残る。
自分は今、どっちの立場に居るのか。排斥する側か、排斥される側か。
SEGAと言う会社の中で?当時、何が起きていたのだろう。
そして、今は。