感覚は些細な話ではある。
物理演算か、物理模倣演算か。
前者は物理その物を再現している!位の断言で言うが、後者は「それっぽいだけ」と言う、前提は言葉の始まりから有る。
結論で言うと、前者は”欠落”が起きる、後者は起きない。
現状でもやっぱり、前者の発案者は、後者の補正を受け入れる事は、出来ない。
私は物理を正確に再現している!と言うのが、「私は神だ!」まで、続くようだ。
”それ”が強い独裁性をそこに発生させ、利益性に重い懸念を残す事には成っている。
古くは「ゼビウス」からか有る、定番の、しかしこの領域では、「打開された事の無い執着」ではあり。
例の「新聞記者」も、主観では”この”流れで、そこに居る訳だ。
帰結は以前のパン屋の衝突、その方が、スッキリはする。
先に始めていた側に問題があるので、引き下がるか、方向を変えるべきだ。
ただまあ、或いは実際に戦争をして見た時、”これ”は今もまだ、「違う結果」を見せるかもしれない。決着がつかない消耗戦に陥る、様な。
「ニコクレーン」とは、何だったか。
”それ”が物理演算で有る限り、どうも欠落はそこに発生し、期待された利益には届かない。
そもそもクレーンゲームの作者とは、誰だったのだろう?
もちろん自分も、「私が作者です」そうは言えないのだ。
ただ、「ニコクレーン」もやっぱり、結論では「被せ」それによって創られていて。その土台に有るのが「ガチャキャッチャー」と言う、自身の企画っぽい気は、する。
”神様”は、何処に居るのだろう?