あげちうのブロマガ

求めた成功の裏にある欠落

「イーグレットツーミニ」とかレトロゲームのミニ筐体が、少し値を下げて売っている。

気持ち喜ばしい反面、同じくらいに「…何が面白いのこれ?」も増えてそうな、そんな気もする。

 

一応、そう言うのを志す(・・・)立場としては、この「何が面白いの?」は、割と深刻な議題ではある。若い頃、というか…自分がユーザーでもある頃には疑問にも思わない事を、今は疑問として対処しなければ、それは商品価値を持てない、そんな現実は重い。考えれば、自分だってかつてはゲーセンに入りびたりつつも、エンディングまでたどり着いたゲーム、は確か無かった。家庭用ハードが普及してやっと、ゲーセンで楽しんでたゲームをクリアして喜べるようになった、訳だが。その頃はもう、何だかゲーセンが下火になり始めては居た。

クリアして始めて意味がある、なら。つまりゲーセンの客の大半は、無意味な事をしていた、訳だ。

今の、自分の企画スタイルと古いアーケードゲームと、そこにある温度差はまあ、ちょっと考える。

自身に起きている問題?も、何だかそう言う方向への恐慌?それを纏い始めている気は、した。「何の意味があるのだろう?」その先には、何も無くなってしまった、そんな状況がある。過失を背負い、それから逃げ、それを古傷として抱えながら、それ故に、その先へ進めない。難しい、というか、既に「無理」に成っている先にしか、自身の目標、そう言うのは無い状態。メディアに注目される、という事は、その古傷を刺激される、という事でもある。名のある、特別な存在に。或いはそんな夢はその時、何かどこか欠けたまま、「無理」の先で笑っている、訳だ。

何の為に頑張って?来たのだろう。様々な物を生贄にさえしながら、今ここにあるのは、何だ?

被害者的には笑い話でさえある、ただ溜飲が下がる、程のそれではないが。ともかく不意に「同情する」様な感覚は、その行き詰まった存在を断罪する、様な感覚を持てないでは居る。”それ”は不定形な、色の黒い粘土の様な、そんな様でそこに落ちていて。”それ”は或いはそれ以上ではない、通行時に気にしつつ避ける、そう言う何か様な、しかし。それはそんな呟きと共に、そこに残って居る、感じ。

努力すれば!どんな困難だろうと突破できる!

的な、古いアーケードゲームをクリアしていった人々が残した高揚?は、この場合は逆効果だ。

夢は叶っている、気はする。無理を通した結果、一時とは言え脚光を浴び、人々から羨望される立場になったその人々は。しかしその一部か多くが今、”そういう状況”に陥った、だけだ。表現すれば「ヒット作を創った」と言う、欲しかったのはその実績というか事実ではある、が。なんとなく成し遂げないまま、フラグだけが欠落を伴って重い。

これは、カウンタ制御、それが招いた意識の欠落、だろうか。

売れてないモノを無理矢理「売れた」事にしても、そこにあるのは売れてないモノでしかない訳で。

微妙に他人事な、それは或いは、単なる幸運、だろうか。

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