感覚は結局、帰結はしていく。
交通事故が起きた、崖に自動車が激突し、運転手は死亡。
事件性は無く、運転手がハンドル操作を誤ったから、で決着。
この時、この運転手を殺したのは”誰”だろう?
今の理解で言うと「大賀さん」に逆らう果てに有るのは”こういう帰結”だ。
運転手はスピードを出し過ぎ、”警告”その看板を無視してカーブへ無理な侵入をした結果、ハンドル操作を誤って、壁に激突した。
誰かここに、彼?の思惑を妨げる存在は居ただろうか?
彼はただ、自身の愚行の対価を支払わされただけだ。
しかし、昭和から平成に掛けては、”これ”が「王の権威」ともかく個人、最終的には「昭和天皇」だった。
その思惑を覆す事は、結構出来たのだ、ただその果てに、対価は平成の負債と悲痛を想像するまでもなく、人類が背負う過失となった訳だが。正にカーブを曲がり切れなかった運転手の様に、自業自得的に対価は世間へ残酷に発生した、ただそれだけではあり。
…それが解った今としてもまだ、「大衆」大賀さんの決定、”それ”は表に出てない。
具体的には「カウンタ制御」こそが、その隠蔽の本懐ではある。
”これ”を隠す結果、スピードを出し過ぎてるのか違うのか、目的地さえ間違えている可能性があり、そしてその結果で破綻が起きたりする。
誰の責任か?
それはもちろん、カウンタ制御をしてる意識、”そこ”ではある。
もちろん、”それ”をしてる意識にとって自身こそが法であり、秩序その物だが。
今の世界で、「居ない人物」は居る、カウンタ制御を否定する思惑、”それ”は存在しない。
”そう言う世界”の中で起き続ける問題と、その帰結ではある。
そしてだからこそ、”そこ”には消せない悪夢、それも有る訳だ。
気にしない方が良い領域と言えば、そう。