これは信仰の問題かもしれない。
ニコニコ動画で、何人雇っているかは解らないが。
”ここ”で給料を貰ってる人々に対して、他が支払いをする必要は基本的に無い。
何を売っているのか?と言う時、表現的には”公園とベンチ”だ。理屈としては、”それ”を維持しているだけでしかなく。
ここに来る人々は、”それ”に対して、月額500円弱を支払っている訳だが。
「創作」それは、そう言う物、ではある。
基本的に「商品」それは、原価と人件費の合算により算定はされる。
”必要性”利便性のみ?を要求されると、結局は100円を100円で買っている?状態でしかない、訳で。
経済的にはこの状態では、微妙に発展性が無い、増えない。
がしかし?ニコニコ動画的には、原価は無く、人件費のみ、”それ”は、理屈としては0円を100円で売っている、光景とは言えるのだ。お金を”製造”している。
”ここ”が維持される限り、”ここ”で働いてる人々は、給料を得続ける事が出来る。ここで得た給料を元に他で製品を買う訳で。ここでお金を得られなかったらその人々はモノを買わない、その分「他の売上は下がる」のだ。維持し続ける事が出来れば、或いは雇用を増やせるなら。他の売上はその分増えていく事には成る。
「創作は社会全体の利益を増やせる」訳だ。経済で考えると、これは画期的な話?ではある。内需拡大策への、大事な基底的理解。創作が利益性を持つ時、世間に富は、増えていくのであって。
ぶっちゃけるとこれは、「バブル」ではある。”それ”が価値を持ち続けている間しか維持出来ない、価値が喪失されたら、その分の雇用も利益も喪失する。しかし逆に言えば?「破裂さえしなければ存在し続ける」訳だ。永続する価値、メンテナンスをし続ける、でも良い、”それ”は実現できるのか?それは大命題ではあり、そしてもしそれが有るなら?”それ”は巨大な価値を内包する…或いは天文学的数値にまで。
まあ或いは、「そう言う物を創った」時、”それ”は、換金性が逆になくなるのだが。社会の根幹に収まり、公共物として”それ”は社会をその理念の通りに(それにとって)健全に維持するべく、影響を現し続ける事に成る。そんな無形の壁はあり、良くも悪くも今の創作は、”この”影響を無視出来ない。この統制下に入ってないと、一切の価値が発生しないのである。一応”雅”市場、その理念は、”そこ”に通じている、筈ではあって。
良くも悪くも”それ”が、今の皇帝ではある。
「面白い創作が増えると、経済は活性化する」理念としては単純だ。単に「面白いとはどういう?」そこに混沌が有るだけだ。「大衆は神である」神にとって、だ。その神が「面白い」と思う物しか、今の創作は、換金性を持たない訳だ。
その時、独裁性それは、まず第一に否定される…諸悪の根源でさえある。
人は神に成る事は出来ない。その神を前にしては、膝を折るしかない。それが出来てそこに、神はコインを置いてくれる。良いも悪いも無い、それが神の敷いた道理ではあり。
この神は、果たして本当に神様だろうか?それは常に、美しい姿と共に有るのだが。