考える所ではある。
多分、だ。
「金が欲しいなら、こちらのシステムに合致した作品を創らないと売れませんよ」
その是非に対して、正義はどっちに有るのか。
皇帝創作はダメで、独裁創作はもっとダメで。技術が認められるまではともかく、”認められた後”には、それまでの様な「ご褒美」は発生しなくなる、そう言う現実があり。その分岐で「プロに成る」選択、オーダーを貰いそれを作る、と言う方向性を選択できないなら、その人々はもう、”それ”を仕事にする事は出来ない。その道理は”ここ”にしかない。これが正義。
「創ったのは?」
私です。最終的には「大賀さん」の結果に従って下さい。
「創ったのは?」
私です。
自分の感覚では、新型コロナウイルスでさえ、”これ”に世間が同意しないから発生している、のだ。「大衆は神である」その信仰の帰結として”それ”は、結論で昭和の頃に憤慨の元に成った「王の権威が認めないと利益に成らない」”それ”を満たさないなら現場が如何に”努力”しようと無意味だ、という理不尽の現在形でしか、ない。平成が始まる時も、問題があり、「我々は自由だ!」は、結論では通らなかった現実があって、その果てに「新世紀エヴァンゲリオン」アレが有る訳だが。
平成の悲劇の数多は、”あれ”を止められれば、従わせる事が出来れば、起きなかったかもしれない、のだ。
ただし、今がそうである様に、憤慨の姿は”そのまま”だ。
「大賀さんの決定に従って下さい」
その時、特にテレビに求められるのは「ポンプ長式大和」の様な姿、内容であり。決して、「つかさ式神州丸」とかでは無いのだ。生活の為に、何かの屈辱、理不尽を押し殺す結果、”それ”は逆に、理不尽な反逆と損害、或いはカルトの発生その理由にもなった、かもしれない訳で。
とは言え、新型コロナウイルスは、人知の及ばない物理的かつ、生物的な存在だ。
選択される理由はある、今までどれだけ”ここ”が、足蹴にされてきたのか?だ。今の反逆にしろ、”これ”を続ける為の戦いに過ぎない。そこに正義は有るか?と言うとやっぱり見えない気はする、しかし。
RPGの勇者の如く、という視点は、ある。
その他は所詮、設定されたイベントに過ぎないのだ。
設定されたモンスターは、どれだけ頑張っても最後は勇者に倒される、そう創られただけだ。
そこに虚無を感じる時、邪の可能性はまだ、残る。