常々ある疑問だ。
なんでゲームって、いつも”悪い”評価なのだろう?
それは、「メタルギア」が他者の嫁をNTRせんとしたゲームだったから。
物語としては「って言う悪夢だったのさ」で済む話が、ゲームは体験であり、そこに何かの現実はあって、そこには見たくない悪夢が、わんさと発生する。
それが、小学生がおばあちゃんにおねだりしてる、頃ならまだ可愛らしい。
「メタルギア」その当時も、主なユーザーは”その辺”でしか無かった。
だから、評価は”その辺”にしかない訳だ。
「子供の遊び場」である。
大の大人が関わるべき場所では無い。
それは今も、何かの重い断言と共にはある。
「メタルギア」は、本当に売れたのだろうか?
疑問は、若干発生中ではある。
不意に、「美鶴さんの長い妄想」それを、「メタルギア」と差し替えてゲーム界隈を見る、と言う感覚が少し発生中、ではある。
昭和の「メタルギア」それはもう”無い”のだ、作品として存在しなかった、或いは考慮すべきものでは無い、そこに有ったのは「美鶴さんの長い妄想」こっちである。
時系列の混沌は、ちょっと有るのだけど。
仮としてそう見る時、多少、ゲームへの評価は変わっては来る。
ここは戦場である。
世界は常に、何かの衝突を続けている、今は”ここ”がその主戦場だ。
ここで勝たないと、自身らの支持する何かは前に出れない、だからこそ。
ここには今、いわゆる「社会人」しか居ないのだ。自身らの生活を護る為に。
…「メタルギア」は?
忘れてください、無かった事に。
まだ、不満もある。
どうしても今は、勝ち組は、常に勝ち組から動かない。
どうすれば自分も?
返答は濁る。
ともかく倒そうと襲ってくる連中を撃ち殺し続けねば、彼らはここで立つ事は出来ないのだ。
「漫画で良かったよね」
そんな呟きと共に、トリガーを引き続ける。
メインは、そう言う人々の領域、である。子供向けはむしろ、今は副次的だ。
もちろん?子供向けの領域もそこにはあり、そして。
”それ”を護る為にも、彼らの戦いは必要にはなっている。
些細な、或いは重大な安定は理想としてはあるのだけど。
間違いなく、35年前に「美鶴さんの長い妄想」それは、片鱗さえ無い。
混沌を内包しつつ、安定するのか否か。
何かの理不尽と、それに伴う特権は、格差の或いは元にも成る。
令和もまた、問題と共に始まったのだろうか。