デマが広がる。
やむを得ないと言えば、そう。
”ここ”の方法論では、「これ」でさえ、皇帝創作、それに成ってしまう。
そもそも元ネタである特撮には、このカメラアングルは難しいから、だ。”それ”をまるで「自分の方が上手い」とでも言いたげに描かれる?と言うのは…やっぱりちょっと、問題は有る。
なので、”ここ”の理解では”これ”は、利益に成らない。
これを得意とし、”これ”を創ってしまって売れなかった?と言うのは、道理でしかない。
…しかし、”これ”はある意味で、程度が低いのだ、「低すぎる」位。
ただ、その「程度が低い」結果か、”これ”はある意味で何処にも衝突せず、独裁創作、”それに許される範囲”の中に納まっていて…その上で、目的は果たしている(多分)。
”ここ”の理解では、”こう言う感覚”じゃないと、利益には繋がらない。
「カウンタ数値低すぎませんか」
カウンタは制御されているのです!
”同意”する人々を前にして、前出の人はちょっとカルトっぽい物を感じるのだった。
対立する狭間の問題ではある。
「新型コロナウイルスは、誰にも罹患する可能性がある!」と言うのが今の、表側の主張、だ。しかし、”ここ”は、「人肉食に通じる感覚に対して反応し重症化する様だ」そう言う物言いをする。どっちを信じる?と言う時、前者を信じる結果としてでも、創作の傾向は前出の「皇帝創作」その傾向を、強く見せる。
評価されるのは、前者なのだけど。
利益には成らないのだ。
何故か?と言うと、皇帝創作は既存の市場、そこに居る客を侮辱する行為でしかないからだ。
「じゃあ庵野秀明はどうなんだ」
だから、実際には。
何を言ってるか解らない、状況は続くのだった。
ともかく”ここ”は、「彼ら」にとっては何かの、特異な、しかし或いは金を持ってる、「狩って良いカルト」ではある。
…これは、平成が始まった時からの「常識」でしかない。
新型コロナウイルスの猛威は、未だ収まる気配を見せない。
邪悪が、ある。