とは言っても。
「面白い」感覚的な合致と、実際の断罪の難しさが、何だかアメリカで起きてる黒人の暴動、みたいな感じさえする。
「朝日新聞社の御家騒動」が現実の物だとして、「それでも新聞記者を排除(物理的に)出来ない」事が、今の硬直を呼んでいる、訳だが。
剣呑ではある、「殺せない」のだ。「大賀さん」にしろ、「この新聞記者の死刑を要求する!」で戦争は起こせない…それは国家の法治に関わる問題だ、国が敵に成る。把握が正確なら、どれだけの損害と苦痛を受けたか解らないが、現状は「その新聞記者は居ません」と言う…何かの遮断はある。後継者に関しては、その問題になる権利を持った?存在その物が無い、村山美知子氏が切り捨ててるから、だ。以前のそれは、そんな妙な「無関係な存在」を、何故か妙に徴用し続けた、村山氏にこそ責任はある。”それは居なくなった”からと言って、受けた苦痛をその「新聞記者」に向ける事が、何だか出来ない。
単に無能なだけだ。
”それ”を、「平等」等の感覚で考えると問題になるだけだ。
その「私は哀れな存在なのです」と言う感覚の向こうで、彼は過剰な権利を要求し、「私は虐げられている!」的な感覚で、”それ”は妙な権利等々を主張し、暴れている?訳だ。
米国では今は、警官も手出しし難い。
すると、「強者による弾圧だ!」と言う批判を受けるから、だ。現場で暴れた黒人を罰した警官が、逆に行政から罰せられた例さえある。発生した「生まれながらの弱者は可愛そう」的な正義?は、現場で暴れる黒人を抑止する事が出来てない、訳だ。
「朝鮮王朝の末裔」その正義の、”それ”に対する「中華思想の皇帝」そんな感じなのかもしれない。
…本来はだからこそ、”ここ”へ、旧村山派は何かの制御を渡そうとしている訳だが。ともかく「王の権威」へ、「大賀さんの制御へ」委ねる事で、彼らの正論を否定は出来るのだけど。それはそれで歴史と言うか、経緯、というかだろうか。「朝鮮王朝の末裔」弱者の正論、それはかなり、深刻に根を張っている、のだ。
旧村山派は、「大賀さんの制御には従う」その証明と言うかは必要なのかもしれない。
中々、今まで通りと良識?が、何かの壁には成っている、感じもあるが。
民主主義を基幹とする限り、トップリーダーの独断で重大な決定を行う、と言う事には大きな反発はある。
「駄目だこりゃ」
それが出るまでは、耐えねばならない、のだろうか?
神の意向は、量りかねる。