創作の価値、ではある。
「人々にとって好ましい運命を創る」
そこにこそ、実際には意味がある。スポーツなんかも一種の紛争解決機構、というか。ともかく”そこ”で双方が衝突する結果で現れる現実は、「物理的衝突をしなかった」回避した、と言う意味はまず有る訳で。
それは「良い結果」だ。
そう言うのを生成して、創作はそこに価値を蓄積し、経済に貢献する訳だがしかし。
「邪悪なる独裁者を倒せ!」
漫画だから、と言う大前提が有っても、これはでも結論で、その独裁者が居たら、それを殺してしまう可能性はあるし、実際に殺すかもしれない。それは許し難い独裁者だ、数多の人々がその人物のせいで悲痛な死や苦しみを受けている。
しかし、例えば青葉容疑者を看護していた人々は、”それ”を許容するだろうか。
36人もの罪なきアニメーターを焼き殺すと言う暴挙をしたとしても、その時それは、救わねばならない命である、”それ”に対して死を望む、それはその場では許されない。それはその時、その物語に対して反発する、大いなる壁、ではある。
理由はともかく不意に、医療と言う壁に、少し意識はする。
「大賀さんの決定です」それは、今もまだ、当り前と言う道理では、無い。
特に公示的には何の加害性も無いとしても、だ。性格その他から、人々に嫌われ中には死を望む人までいて、結果で”それ”が何かの厄災に見舞われる、にしろ。それが担ぎ込まれた病院では、その人物を助ける為に最善を尽くさねばならない。
その時、不意に、「邪悪な独裁者だから何?」その声は、そこに有ったりする訳だ。
ブルンジと言う国の、ヌクルンジザ大統領が、若くして心不全で急死した、と言う。典型的な独裁者で、それは国民を数多苦しめてきた、と言う話。以前にネタにした「邪悪なる独裁者を倒せ!」そのネタは不意に、”それ”を起こす理由に成ってしまった?可能性は無いか。
「大賀さん」その決定ではある。「大衆」その同意なく、その運命は発動しない。
それでも、”それ”はきっかけとして、その運命を創った、かも。
オーダー元の想定外かもしれず、また、主義主張に対する否定、かもしれない。
その是非は、奇妙な混沌ではある。