最近、「何でゾンビなんか好きなんですか?」と良く聞かれるのです。
そりゃあ大好きですゾンビ。
自分が死んだら、しばらくそのまま放置してもらってイイ感じに腐ってタールマン化してきたらアクリルで固めてもらってバタリアンのオープニングのテーマ流しながらタールマン化した自分の前で葬式してもらいたい位好きです。
というわけで、
「何で俺はゾンビなんかが好きなんだろう」とふと考えてみたのです。
コレは絶対、間違いなく、小学生の時読んだ「怪奇植物トリフィド」という小説の所為だと断言できる。
(写真は俺がフォトショップで5分で描いたトリフィド想像図)
この「怪奇植物トリフィド」は、「トリフィド時代―食人植物の恐怖」(創元SF文庫 ジョン・ウィンダム著)というSF小説を子供向けに再編集したジュヴナイル版のSF小説で、どんな内容かと言うとですね、
「地球が緑色の大流星群の中を通過し、翌朝、流星を見た者は一人残らず視力を失ってしまう。狂乱と混沌が全世界を覆った。今や流星を見なかったわずかな人々だけが文明の担い手だった。しかも折も折、植物油採取のために栽培されていたトリフィドという三本足の動く植物が野放しになり、人類を襲いはじめたのだ!」
といった内容で。
この小説を小学校の図書室で初めて読んだ時の衝撃は今でも忘れません。
それまでに自分が観た映画や小説は、どんなお話でも結局最後は必ず人間(または正義)が勝つ、といった内容だったワケで、「オープニングから人間が圧倒的に劣勢」という「怪奇植物トリフィド」の内容は余りにも衝撃的だったわけで。
ああ、人間の作った文明なんて呆気ないもんだなあ、と思うのと同時に、作品中での「トリフィド」の余りにも無慈悲極まりない人間への攻撃(植物なんだから当たり前か)や圧倒的な数を武器に押し寄せてくる不気味な迫力に小学生の僕はノックアウト、というかその終末的ストーリーに完全に魅了されてしまったのですよ。コレのおかげで未だに流星群とか怖くて見れないし。
翌朝盲目になったらどうするのさ!
そんなこんなでトリフィドの虜になった僕ですが、そんな時にロメロ御大の「ゾンビ」に出会ってしまったわけですよ。
初めて「ゾンビ」を観た時に「これトリフィド実写版じゃんかよ!」って思ったもんです。
圧倒的不利に立たされる人間。廃墟と化した街並み。自分が長年妄想していた「怪奇植物トリフィド」の世界が「ゾンビ」の中で描かれていたんですね。しかもゾンビたちの人間に対する情け容赦ない攻撃がトリフィドを髣髴させる・・・、というか歩く植物より歩く人間の死体のほうが怖いのは当たり前で、
「トリフィドなんかよりゾンビのほうが怖い!」
と今度は「ゾンビ」の虜になってしまったというわけです。
その後の「死霊のえじき」なんてもう真ん中ストライクでした。
まあそんな経緯があってゾンビ好きになってしまった訳なのです。
加えて言うなら、ゾンビ映画の持つある種終末的な雰囲気が好きなんです。
そもそも俺が小学生だった80年代というのは、割と「終末的な思考」が許容されていた時代というか、結構誰もが「未来」に対して悲観的だった時代だと思うわけで。
チェルノブイリ事故が起こって「放射能の雨が降る」とか言われて雨が怖かったりしたのもこの頃だし、ソ連もアメリカもやる気満々で核戦争なんてのはリアルに起こってもおかしくなかったし、石油や鉄鉱石なんて自分らが大人になる頃は完全に枯渇しちゃうもんだと思ってたし、北斗の拳は流行ってたし、ノストラダムスの大予言もまさか外れるとは思ってなかったし(笑)、まあとにかく21世紀ってのがそんなに明るい時代じゃないんじゃないかな、と言う漠然とした不安は誰しも抱いていた時代で(俺だけか?)。
まさか21世紀がこんなヌルい時代だとは想像も付きませんでした。
でもね、思うのは、あの頃はまだ、悲観的な分この世界の行方を真剣に気にしている人が多かったのかな、と。
無くなりつつある資源をどうしたらいいかとか、環境破壊はどうしたらいいんだとか、オゾン層の破壊はどうしたら止められるんだとか、戦争をなくすにはどうしたらいいかとか、そういう話が今よりずっと盛んに行われてたように思うんですよね。
客観的に観て20年前より何もかも状況が悪くなってる筈の今の世の中で、そういう話をあまり聞かなくなったのは何故なんだろう、とふと思う。
何となく、そういう話はタブーになっているというか、臭いものには蓋で暗い話はしたくない、といった風潮は確かにあるんじゃないかな、と思う今日この頃。
食料や資源なんて今のまま消費し続ければなくなっちゃうのは誰が見てみても明らかなのに誰もそんな話しないってのは不気味です。「石油無尽蔵説」なんて胡散臭い説も出てるし・・・
資源なんてあと何年持つんだか。
今の平和というか現状が永久に続くと思っている人は幸せな人だなあと、つくづく思う。
取り返しが付かなくなってから慌てても遅いのに。
現状に満足している人間に、良き未来は創れませんやね。
小学校の道徳の時間に「死霊のえじき」みせるの必修にしたらいいんじゃないかなあ。
そりゃあ大好きですゾンビ。
自分が死んだら、しばらくそのまま放置してもらってイイ感じに腐ってタールマン化してきたらアクリルで固めてもらってバタリアンのオープニングのテーマ流しながらタールマン化した自分の前で葬式してもらいたい位好きです。
というわけで、
「何で俺はゾンビなんかが好きなんだろう」とふと考えてみたのです。
コレは絶対、間違いなく、小学生の時読んだ「怪奇植物トリフィド」という小説の所為だと断言できる。
(写真は俺がフォトショップで5分で描いたトリフィド想像図)
この「怪奇植物トリフィド」は、「トリフィド時代―食人植物の恐怖」(創元SF文庫 ジョン・ウィンダム著)というSF小説を子供向けに再編集したジュヴナイル版のSF小説で、どんな内容かと言うとですね、
「地球が緑色の大流星群の中を通過し、翌朝、流星を見た者は一人残らず視力を失ってしまう。狂乱と混沌が全世界を覆った。今や流星を見なかったわずかな人々だけが文明の担い手だった。しかも折も折、植物油採取のために栽培されていたトリフィドという三本足の動く植物が野放しになり、人類を襲いはじめたのだ!」
といった内容で。
この小説を小学校の図書室で初めて読んだ時の衝撃は今でも忘れません。
それまでに自分が観た映画や小説は、どんなお話でも結局最後は必ず人間(または正義)が勝つ、といった内容だったワケで、「オープニングから人間が圧倒的に劣勢」という「怪奇植物トリフィド」の内容は余りにも衝撃的だったわけで。
ああ、人間の作った文明なんて呆気ないもんだなあ、と思うのと同時に、作品中での「トリフィド」の余りにも無慈悲極まりない人間への攻撃(植物なんだから当たり前か)や圧倒的な数を武器に押し寄せてくる不気味な迫力に小学生の僕はノックアウト、というかその終末的ストーリーに完全に魅了されてしまったのですよ。コレのおかげで未だに流星群とか怖くて見れないし。
翌朝盲目になったらどうするのさ!
そんなこんなでトリフィドの虜になった僕ですが、そんな時にロメロ御大の「ゾンビ」に出会ってしまったわけですよ。
初めて「ゾンビ」を観た時に「これトリフィド実写版じゃんかよ!」って思ったもんです。
圧倒的不利に立たされる人間。廃墟と化した街並み。自分が長年妄想していた「怪奇植物トリフィド」の世界が「ゾンビ」の中で描かれていたんですね。しかもゾンビたちの人間に対する情け容赦ない攻撃がトリフィドを髣髴させる・・・、というか歩く植物より歩く人間の死体のほうが怖いのは当たり前で、
「トリフィドなんかよりゾンビのほうが怖い!」
と今度は「ゾンビ」の虜になってしまったというわけです。
その後の「死霊のえじき」なんてもう真ん中ストライクでした。
まあそんな経緯があってゾンビ好きになってしまった訳なのです。
加えて言うなら、ゾンビ映画の持つある種終末的な雰囲気が好きなんです。
そもそも俺が小学生だった80年代というのは、割と「終末的な思考」が許容されていた時代というか、結構誰もが「未来」に対して悲観的だった時代だと思うわけで。
チェルノブイリ事故が起こって「放射能の雨が降る」とか言われて雨が怖かったりしたのもこの頃だし、ソ連もアメリカもやる気満々で核戦争なんてのはリアルに起こってもおかしくなかったし、石油や鉄鉱石なんて自分らが大人になる頃は完全に枯渇しちゃうもんだと思ってたし、北斗の拳は流行ってたし、ノストラダムスの大予言もまさか外れるとは思ってなかったし(笑)、まあとにかく21世紀ってのがそんなに明るい時代じゃないんじゃないかな、と言う漠然とした不安は誰しも抱いていた時代で(俺だけか?)。
まさか21世紀がこんなヌルい時代だとは想像も付きませんでした。
でもね、思うのは、あの頃はまだ、悲観的な分この世界の行方を真剣に気にしている人が多かったのかな、と。
無くなりつつある資源をどうしたらいいかとか、環境破壊はどうしたらいいんだとか、オゾン層の破壊はどうしたら止められるんだとか、戦争をなくすにはどうしたらいいかとか、そういう話が今よりずっと盛んに行われてたように思うんですよね。
客観的に観て20年前より何もかも状況が悪くなってる筈の今の世の中で、そういう話をあまり聞かなくなったのは何故なんだろう、とふと思う。
何となく、そういう話はタブーになっているというか、臭いものには蓋で暗い話はしたくない、といった風潮は確かにあるんじゃないかな、と思う今日この頃。
食料や資源なんて今のまま消費し続ければなくなっちゃうのは誰が見てみても明らかなのに誰もそんな話しないってのは不気味です。「石油無尽蔵説」なんて胡散臭い説も出てるし・・・
資源なんてあと何年持つんだか。
今の平和というか現状が永久に続くと思っている人は幸せな人だなあと、つくづく思う。
取り返しが付かなくなってから慌てても遅いのに。
現状に満足している人間に、良き未来は創れませんやね。
小学校の道徳の時間に「死霊のえじき」みせるの必修にしたらいいんじゃないかなあ。
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