昨日、所要で柏へ行く予定でしたが、先方の都合で日延べ……。
その予定が決まったのは先々週の金曜日だったので、昨日あたりならちょうど頃合い、と考えていたものがありました。
カタクリ(片栗)の花です。
カタクリの咲く里があるのは、東武線の逆井(さかさい)という駅の近くです。柏から三つ目なので、所要を終えたあとに見に行こうと思っていたのです。その所要はなくなってしまいましたが、このところ日中は暖かいので、昼過ぎ早々に庵を出て見に行くことにしました。
逆井駅で降りて東口に出ました。階段を下ると柱に「カタクリ群生地」の標示。方角が示してあるだけなので、無事辿り着けるのかと危惧しながら、ともかく歩き出しました。
駅から少し歩くと、電車の線路も単線、のどかな田舎という風情です。
どっちへ行けばいいのか? と迷いそうなところには必ず標識がありました。おかげで駅から歩いて十分足らず。迷うことなく辿り着くことができました。
ただ、残念なことに時期が早過ぎたようです。
下の画像では土手の一番上に二、三輪咲いているのですが、小さな花なので、遠眼鏡でも持っていないと見えません。写るかどうかわかりませんでしたが、とりあえずズームで撮影しておいて、パソコンに取り込んで拡大すると……確かに咲いていましたが、このブログに添付すべく、拡大してしまうと、どこに花があるのか、なぁ~んにもわからなくなってしまいました。
たまたま毎日カタクリを見ながら散歩をしているという老爺が居合わせました。
その老爺のたまわく ― 例年なら見ごろは四月初旬で、いまごろだったらもう少し咲いているはず、とのこと。
今年は先日の地震で中止となりましたが、四月四日にはカタクリ祭りも予定されていました。しかし、いまの状態を見ると、見ごろは二週間後ぐらいだろうということでした。猛暑の夏と極寒の冬のせいで、花の体内時計も狂わされてしまったのでしょう。
かつては関東一の自生地と評されたようで、柏市の市の花の一つにもなっていますが、花がないこともあり、なんとなくうら寂しいイメージでした。
カタクリの花を愛でながらしばし時間を過ごす、という予定は狂わされてしまいました。花の写真がないのも寂しいので、柏市観光協会のホームページにある画像を拝借しました。
このあとはどうすべェか、と地図を取り出して目を落としました。
増尾城址公園へ行ったとき(ブログは去年の十二月二十日)、途中にあった法林寺で江戸時代に藤心(ふじごころ)陣屋で使われていた苦抜きの門を見ました。その陣屋跡が遺されているらしかったのですが、ちょっと距離があったので、その日は見に行くのを断念したのでした。
が、このカタクリの群生地からなら、歩いて十五分ほどなので、行ってみることにしました。途中に卍印があって、宗壽寺とあるので、どんなお寺なのかわからねど、そこにも寄りながら……。
地図には名のなき川。
スミレ(菫)や蓮華の花はなく、咲いていたのは菜の花だけでしたが、♪春の小川、です。画像右手が下流。
風はまだ冷たかったけれど、この流れに沿って、しばし田園地帯を歩きました。
カタクリの群生地から十二~三分歩くと、宗壽寺が見えてきたので、寄ってはみたものの、真言宗豊山派の寺院で、安養山という山号であるとわかっただけ。資料が得られず、どういう寺院なのか、今日のところは一切不明です。
地図には、南東の方角に慈本寺というお寺が載っていました。一旦藤心陣屋跡から遠ざかることになりますが、寄ってみることにしました。このあたりは田園地帯で家も尠ないので、お寺は多くありません。
恐らく昔の畦道を拡幅して舗装した道路ばかりなのでしょう。川に沿った広大な土地で、田圃や畑は大体四角くつくってあるはずなのに、なぜ道はクネクネと曲がらねばならぬのか。不思議です。
太陽を見上げて南東の方角を計り、斜め上方を眺めつつ、寺院らしい甍を見つけようと歩いたのですが、歩いても歩いてもそれらしき甍が視界に入ってきません。
方角もわからずにこのまま歩きつづけたのでは、藤心陣屋がわからなくなるどころか、帰り道すらわからなくなると思ったので、捜すのは諦めて途中で引き返すことにしました。
といって、まったく土地勘のない場所です。先に見た宗壽寺の伽藍を見つけ、歩いてきた小川に辿り着かなくてはなりません。
そうしてある角をグルリと曲がったとき、「曹洞禅宗慈本寺」という看板が目に入りました。
「おお」と私は思わず声を上げていました。どういう宗派の寺かもわからず、ただ地図に卍の印があるので訪ねようと発心しただけ。しかも見つけることができずに退散しようとした矢先に出会ったのです。それが我が宗派のお寺であったとは……。
これは道元禅師のお導きでなくて、一体なんであろうかと、いささかオーバーなほど感動したのでありました。
本堂前の石盤に記されたところによれば、開創は文明十二年(1840年)、開基は源通茂、開山は大清全真大和尚。
開基の源通茂という人物はインターネットで検索してみましたが、不明です。
大清全真大和尚は印旛郡東祥寺(現・印西市)から招かれて入寺したのが五十一歳のとき、とあるので、まったく無関係な話ではありますが、大和尚の生年は私が愛飲している伊右衛門(サントリー)の福寿園が創業した寛政二年(1790年)ということになります。
慈本寺在住二十二年ののち、七十三歳のとき、再び印旛に戻り、慶昌寺、高岩寺、慈眼寺、廣済寺(いずれも印西市)などを開創。八十九歳で遷化。
ご縁ができたので、いずれ東祥寺には参詣しなければならないと思いましたが、車を持たぬ私が行こうとすると、北総鉄道とやらで印旛日本医大という駅まで行き、そこから三十分以上歩かなくてはなりません。印旛日本医大という駅へ行くこと自体、二度の乗り換えを強いられるので、待ち時間を含めると五十分近くかかります。行く機会をつくれるかどうか……。
例によって歴住の墓所を捜して参拝しましたが、古いものはまったく判読できませんでした。
慈本寺は偶然見つけたようなものだったので、境内を出ると、方角がまったくわからなくなってしまいました。
とにかく小川を、と思って闇雲に歩いていたら、幸いなことにかなり遠方ではありましたが、先に寄った宗壽寺らしき伽藍を見つけることができました。宗壽寺と道路を挟んで八幡神社があり、そこを行き過ぎたところに「←藤心陣屋」の道しるべ。
なんとか辿り着きましたが、石標と説明板があっただけだったので、正直なところ拍子抜けでありました。まあ、史跡巡りをしているとしばしばあることなので、拍子抜けをいつまでも引きずってなどいられません。
ここに陣屋を置いたのは江戸時代初期の本多正重(1545年-1617年)という人。正利の四男で、兄に知略家として有名な本多正信がいます。
正重は兄と違って家康にも遠慮なく物申す剛直な武士で、それがために家康からは好かれなかったといわれますが、槍の名手で、信長は海道一の勇士だと賞賛していたそうです。
一万石の大名でしたが、正重の死後、八千石に……。しかし、家は連綿と明治の時代までつづきます。
今朝、ようやく桔梗が芽を出したのを認めました。去年と一昨年、鉢植えで買ってきて庭に移し替えた五株のうち、それぞれ一株ずつです。
寒い冬だったせいか、芽吹きは例年より数日遅いようです。画像添付に適した写真が撮れないほど小さいので、ご紹介するのはもう少し大きくなってから……。
ただ、球根で買ってきたもの、種で播いたものは、芽を出す兆候がまったく見られず、どうしてしまったのだろうかと、老い始めた胸を痛めています。
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