桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

佐倉散策(1)

2010年10月16日 10時30分32秒 | 歴史

 ひと月一度の私の通院予定日は七日でしたが、この日は講習を受けていたので行けません。次に担当医師がくるのは十四日でしたが、この日も講習がありました。このぶんでは二十一日しか行く日がないと思っていたら、十二日の講習は自宅学習(すなわち休み)ということになりました。
 いろいろな用具を使って実習のようなことをする関係上、四十人全員が揃って講習を受けることができないので、グループを二つに分けたのです。
 体調はさほど悪くないので、診察日を先送りしても、どうということもなかろうと思いますが、気になっていたのは七日の朝で薬がなくなってしまっていたことです。
 休みができると知って病院に連絡を取ったら、診察は二十一日に延ばすことにして、処方箋をつくってもらって
おくので、薬だけ取りにきてください、ということになりました。

 十二日の朝方は小雨でしたが、八時前には熄みました。もう降りそうもないと思われたので、傘は持たずに出かけました。湯島まで行って処方箋をもらい、薬局で薬をもらって京成上野駅に着いたのは十時。具合のいいことに十時八分発の成田行特急がありました。
 講習が休みになり、病院へ行くと決まったときから、京成電車に乗って佐倉に行こうと決めていたのです。

 主な目的は三つ。
 一つは平將門の愛妾・桔梗御前の墓といわれる桔梗塚へ行くこと。
 取手にある桔梗塚は去年初夏に訪問しています。千年以上も前の人ですから、いろんなところに伝承が遺されていても不思議ではありませんが、佐倉にもあると識って気に懸かっていたところです。
 あと二つは依田學海(1834年-1909年)と佐藤泰然(1804年-72年)にまつわる何かを捜して訪ねる、というのが目的です。
 桔梗塚はインターネットの地図に載っていたのでプリントしました。佐藤泰然については墓所と彼が開いた佐倉順天堂の記念館があるとわかりましたが、依田學海については何も下調べができませんでした。

 京成佐倉に着いたのは十一時二分。
 駅前にオリジン弁当があったので、昼食にするつもりで握り飯と冷茶を買いました。
 この店は私の地元・北小金駅の南口にもあって、ときどき握り飯を買ったりします。チェーン店ですから、値段は同じだろうと思ったら、一つにつき¥28も佐倉のほうが安い。関係者に訊いていないので理由はわかりませんが、人件費が安いからなのでしょうか。ただし、冷茶のほうはサントリー・伊右衛門の500ミリペットボトルだったので、値段は同じでした。

 少し歩いたところに観光案内所があったので、パンフレットをかき集めました。なかなかに意匠を凝らしたパンフレットをつくっています。
 観光地図を眺めて見ると、佐藤泰然の墓所がある宗圓寺というお寺も佐倉順天堂記念館も載っています。桔梗塚は市街地から離れているので、載っていなくても仕方がない。ところが、依田學海に関するものは何もないようです。
 パンフレットの置かれた棚の一番上に長嶋茂雄の写真が飾ってありました。私はドラゴンズファンではあっても、プロ野球ファンではないので、長嶋にはまったく興味がありませんが、そういえば佐倉高校の出身なのでした。
 そんなことより依田學海です。思わず物欲しそうな顔をしていたのか、案内所にいた熟年のご婦人が「Can I Help You?」と言いたげな表情で近づいてきました。「依田學海」とおもむろに言ってみたのですが、通じませんでした。

 佐藤泰然は佐倉の人ではありません(武蔵国川崎の人)が、佐倉に腰を落ち著けて、医学と蘭学に多大な功績を遺しました。
 依田學海は佐倉の人でありますのに、幕末期は佐倉藩最後の江戸留守居役で江戸に滞在していました。明治になると、文部省に出仕してそのまま東京住まいと、地元には縁が薄かったからでしょうか、佐倉の人はあまり誇りとはしていないようなのです。墓所も東京の谷中霊園です。

 しかし、この人抜きに明治期の文芸を語ることはむずかしく、この人がいなければ、森鷗外も幸田露伴もこの世には現われなかったかもしれないのです。
 まあ、観光案内所でそんな講釈を披露したところで話にならんと思いましたので、ご婦人が小首を傾げているのをあとに、桔梗塚とは反対方向ですが、まず国立歴史民俗博物館へ行くことにしました。駅から入口まで歩いて十二~三分です。



 入口を入って、愛宕坂と呼ばれる坂を上る途中にある臼杵磨崖仏です。レプリカですが、実物は写真でしか見たことがないので、結構気に入りました。

 


 国立歴史民俗博物館。通称歴博。普段は月曜休館。前日月曜は体育の日だったので、訪問当日が休館でした。
 曜日のことは考えに入れずにきていました。以降、施設と名のつくところは前日臨時開館しているので、すべて休館です。



 これより佐倉城址公園。
 明治維新後の廃城令によって、建築物は何一つ遺されていませんが、広大な敷地はそのまま遺されているようです。歴博があるところもかつての城内で、馬出しなどがあった外郭です。



 空堀跡。
 この地に築城が計画されたのは室町時代後期・千葉氏によってですが、諸事情があって、実際に城が築かれたのは江戸時代になってから。それなのに、石垣がない(つまり土盛りだけでつくられた)という珍しい城です。



 本丸跡入口に建つ堀田正睦(まさよし・1810年-64年)とタウンゼンド・ハリスの像。
 安政五年(1858年)、アメリカ総領事のハリスは日米修好通商条約の調印を求めました。正睦は上洛して、孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしましたが、却下され、手ぶらで江戸へ戻ることとなりました。

 


 本丸跡と本丸を取り囲んでいた土塁跡。
 ここを見ていたときに雨が降り出しました。最初は木陰に入れば凌げる程度の降り方だったので、ベンチに腰かけて、駅前で買っておいた握り飯を食べましたが、やがて本降りになって、雨宿りを強いられること三十分。

 雨が上がると強い陽射しが出て、急に蒸し暑くなったと思うと、再び霧雨、と天候は二転三転しました。



 大手門跡。
 この門の前に藩重臣屋敷が並んでいた、という説明と幕末期の写真がありました。お城を背にすると、いまは左が歴博の研究施設・宿泊施設と佐倉中学校、右が佐倉東高校と市民体育館に変わっています。
 依田學海の父親は長柄奉行(鑓奉行)だったので、幕末のころは閑職です。重臣とはいえませんが、下級武士ではないので、ここからそれほど遠くはないところで生まれたのでしょうか。

 


 市民体育館脇の道を一度下って上ったところにある武家屋敷跡。ここも休館。

 


 前に訪問した茨城県の石岡や栃木ほど数は多くはありませんが、佐倉の旧城下町中心部には古い建築物が遺されています。
 上は山口家住宅。明治二十九年に建てられた袖蔵。ここはもともと非公開です。
 下は佐倉市立美術館。大正七年に建てられた旧川崎銀行佐倉支店の建物です。川崎銀行の建物は千葉市、水戸市などにも遺されています。



 何用あって桂小五郎が佐倉までやってきたのか。旅籠油屋跡地。ここも休館日だったので、何用があってきたのかは解明できぬままです。

 このあと、近辺のお寺と順天堂記念館を訪ね、いよいよ桔梗塚を目指します。〈つづく〉



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