桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2012年七月の薬師詣で・さいたま市大宮区

2012年07月08日 20時41分40秒 | 薬師詣で

 毎月八日の薬師詣で。
 昨年一月から始めて、今月が十九か月十九度目になります。これまで雨に降られたのは昨年十二月の一回こっきり。それも途中から雨……と、まあまあ天気には恵まれてきました。
 自分のことは祈らず、友人知人が息災でありますようと願かけをしてきましたが、利己ではない利他というその心がけが殊勝であると薬師如来様が愛でてくださったものかどうか、と思っていた矢先、昨日の天気予報ではどうやら雨を覚悟せねばならぬようで、朝方七時過ぎまでビチャビチャと雨の音がしていまし
たが、九時過ぎには熄みました。その後は曇りときどき雨ではありましたが、ときおり陽射しに恵まれるようにもなりました。



 常磐線→武蔵野線→京浜東北線と乗り継いで、大宮駅で降りました。
 大宮は何度も通ったことがありますが、特急で通り過ぎただけか、さもなくば乗り換えで構内を歩いただけ。降りて駅の外に出るのは、記憶に間違いがなければ、三十数年ぶりです。

 今日は西口に出ましたが、三十数年前は確か東口に待つ人がいて降りた、という記憶があります。しかし、相手が女性で、亭主が付き添いで同伴していた、ということは憶えていますが、名前も用件の細かなところもきれいサッパリ忘れています。彼女の事務所か自宅にお邪魔したという記憶はないので、喫茶店にでも入ったはずですが、そんなことどもも完全に忘れています。

 いつもの薬師詣でだと、訪ね歩く途中に寺社や文化財があれば寄り道をしつつ行きますが、今回は病み上がり、というか、大腸のポリープを切除して、術後まだ六日です。烈しい運動は控えるように、と釘を刺されているので、ゆっくり歩くのであればよいが、長距離を歩いては「烈しい」運動になってしまう。よって、極力寄り道は避けることにします。



 大宮駅から十五分強で普門院に着きました。
 月江正文(寛正四年=1463年寂)が応永三十三年(1426年)に武蔵一の宮氷川神社で祈願していたところ、領主・金子駿河守大成(永享七年=1435年寂)の寄進を受けることとなって、領主の居館を大成山普門院と号して開山しました。月江正文和尚は当寺の他、尾張国の楞厳寺、上野国の雙林寺を開山した名僧といわれる人です。



 観音様ふうの立像ですが、ガラスケースに納められているので、乱反射してしまって、よく見えません。



 市街地にあるのに、別天地のような境内の林です。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を捜し、焼香しようと思いましたが、墓前まで行けないわけではありませんが、木柵が立てられていたので、足を踏み入れるのは遠慮して、拝礼だけしました。焼香も遠慮しました。



 歴住の墓所のすぐ近くには幕末期の外国奉行・小栗上野介忠順など小栗家代々の墓がありました。こちらも木柵の規制があったので、足を踏み入れるのは遠慮しました。

 普門院を出たあとは、偶然グーグルマップで見つけたのですが、「薬師堂」とあるだけで、名のわからない薬師堂を目指します。



 鴻沼川という小川を越えて行きます。



 小さな御堂がポツンとあるだけだろうと想像していたのですが、墓地の中にあって、なかなかどうして立派な御堂でした。
 屋根の形は確かに薬師堂。しかし説明板のようなものはなく、周辺に人影も見当たらなかったので、何もわからぬまま、ただ参拝。



 大宮駅を目指して戻り、手前勝手に歩き回るコンコースの人混みをすり抜けて、今度は東口に出ました。
 旧中山道が通っています。



 大宮駅から六分。東光寺に着きました。草創以来九百年近い歴史がある曹洞宗の名刹です。



 ここでも歴住の墓所を捜し、中央の開山大和尚の卵塔に焼香して三拝九拝。



 東光寺を出たあと、東に向かってまっすぐ歩いて行くと、武蔵一宮・氷川神社の参道です。



 亡くなった地井武男さんがテレビ朝日の「ちい散歩」に出ておられたとき、訪ねたのはこの団子屋さんではなかったかと思います。



 氷川神社拝殿。お初参りらしき人々が順番待ちの行列をつくっていました。

 

 大宮駅に戻ってまた人混みを縫って歩くのはうんざりなので、氷川神社の背後にある大宮公園を抜けて行きます。



 大宮駅に戻らずにどうするつもりだったのかというと、東武野田線の大宮公園駅に出て、柏まで一時間。各駅停車の電車にゴットンゴットンと揺られながら、ゆっくりと帰ることにしたのです。

この日、歩いたところ



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