桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

佐倉散策(2)

2010年10月18日 19時59分13秒 | 歴史

 佐倉散策の(つづき)です。
 武家屋敷を巡ったあと、佐藤泰然の墓所がある宗圓寺を訪ねました。   



 宗圓寺。臨濟宗妙心寺派。
 寛永十八年(1641年)、堀田正盛(1609年-51年)が開基。
 正盛は佐倉藩主としては八代目。しかし、跡を継いだ嫡男の正信が幕政への不満から無断で佐倉に帰ってしまい、改易除封となります。のちに再び佐倉藩主となる堀田家は正盛の弟で、三男の正俊(1634年-84年)の家系です。



 宗圓寺本堂のすぐ後ろにあった佐藤泰然の墓。泰然の家族のほか、蘭学関係者の墓があります。

 佐藤泰然は文化元年(1804年)、武蔵国川崎在稲毛の生まれ。高野長英に医学を学び、長崎で蘭方医学を学んだのち、江戸で開業しましたが、天保十四年(1843年)、佐倉藩主・堀田正睦に招かれて佐倉に移り住み、佐倉順天堂を開いて治療に当たるかたわら多くの医学生を育てました。順天堂大学は佐藤泰然が江戸薬研堀に開いた蘭方医学塾(和田塾)が起源です。



 天台宗甚大寺。
 天海僧正が山形城下に創建した寺。山形城主だった後期堀田家の正亮(まさすけ)が佐倉へ転封されるのにともなって、佐倉城下に移築されました。吊るされている提灯は毎月十日に開かれる金毘羅大権現の縁日の名残。



 甚大寺の堀田家累代墓所入口。

 

 後期堀田家の初代・正俊(上)と正睦(下)
の墓。
 最初に佐倉藩主となった嫡流の堀田家と区別するため、この家系を正俊系堀田家と呼んだり、後期堀田家と呼んだりします。
 正俊は将軍・綱吉の時代には大老まで上り詰めましたが、従叔父の美濃青野藩主・稲葉正休(いなば・まさやす)に江戸城内で刺殺されるという最期を迎えます。
 原因は正休が淀川の治水工事の任から外されたことを恨んだとも、正俊が生類憐れみの令に反対していたので、綱吉による差し金とも。



 浄土宗教安寺。寛永二年(1625年)の創建。
 開基は花井左門という人ですが、左門の父親は花井遠江守吉成といって、徳川家康の六男・松平忠輝の家老だった人です。
 忠輝は容貌が怪異だったことから父・家康に疎まれ、家康の死後、兄・秀忠によって改易、配流されてしまいます。
 家老の嫡男だった左門もそのとばっちりを食って佐倉に配流。当時の佐倉城主・土井利勝の庇護の許に建立した寺がこの教安寺であると伝えられています。



 蘭学通りと愛称のつけられている教安寺前から佐倉順天堂記念館までの通り。



 浄土宗松林寺本堂。
 いまは本堂になっていますが、前身は四代目の佐倉城主・土井利勝によって創建された観音堂です。土井利勝は先月訪問した古河の藩主だった人です。
 利勝の四代あと、利益(とします)が志摩鳥羽へ転封になると、入れ替わって堀田正俊が上州安中から古河藩主に。
 そういう経緯を知っていて、古河のあとは佐倉……と決めたのではありませんが、不思議な因縁です。



 松林寺にある土井利勝の父母と夫人の供養塔。
 左は宝光院殿と読めるので、養父・土井利昌。中央が養母(松平清直の三女)。右が正室・松平近清の娘のものと思われます。利勝は水野信元の三男(実際は徳川家康の子ども)で、土井家には養子で入ったのでした。



 佐倉順天堂記念館。ここも当然休館日。
 現在遺されている建物は安政五年(1858年)に建てられたもの。東京・湯島にある順天堂大学は泰然の養子・尚中(たかなか)が開いた順天堂病院が前身です。

 さて、いよいよ佐倉探訪の第一の目的である桔梗塚に向かいます。
 桔梗塚を中心にしてプリントして持ってきた地図には佐倉東小学校が左端に載っています。この小学校に沿った道の先に桔梗塚があります。
 観光案内所で手に入れた地図には一番右端に小学校が載っていました。もらったときにそれを確かめていたので、相当歩くことになりそうだけれども、なんとか行けそうじゃ、と安心したこともあって、先に城址や城下を歩こうと決めたのでした。

 順天堂記念館から京成佐倉駅に出る道を北上すると、やがてY字型の交差点になります。そこを右手に進みます。小学校までの道はどんな道かわかりませんが、地図によれば、ほとんど交差もないような道です。
 野道だろうか、という予測に反して、ずっと住宅街がつづいていました。細い道ばかりですが、結構交差する道がある上に、上り下りがある。
 うにゃうにゃ? と不安に思ったのが、多分失敗の始まり。疑問を懐かず、道なりに進めばよかった(多分)のですが、道路に描かれたスクールゾーンという標示の向きが途中で逆転していたのに釣られてしまったのです。行き過ぎた、と思い込んでしまいました。

 私が持ってきた地図では、小学校周辺は緑色に塗ってあります。山か林か、あるいは野原であることを示しています。前方を見たらこんもりと樹の繁る台地がありました。
 小学校らしいものは見当たりませんが、これが緑色の部分であろうと思いました。あとで確認すると、私が見た台地に隠れていましたが、奥にもう一つ台地があったのです。
 住宅地がつづいているのに人影がないので、道を訊ねることもできません。

 結局、グルリと一周した挙げ句、また順天堂記念館の前に戻ってしまいました。今度は回り道になるのを覚悟で佐倉高校まで行って、ようやく東小学校を見つけました。この途中でも一時霧雨。



 こんな上り坂が小学校の敷地が切れるところまでつづいています。そこから先は未舗装の純然たる農道。



 しばらく歩くと野菜の直売所があって、留守番がおりました。しかし、道を行き来する人影はありません。

 

 桔梗塚遠景と桔梗塚。
 道に迷った末に辿り着いたせいか、呆気ない感じで見つかりました。
 塚の周りはきれいに草が刈り取られ、前にはお酒の紙パックが二つと缶コーヒーが供えてありました。いまは分断された形になっていますが、ここはこのあと訪れる將門神社の奥の宮であったようです。

 茨城県取手にある桔梗塚と同じように、桔梗御前によって敵方に売られたという將門の祟りによって、周辺では桔梗の花が咲かないそうです。

 このあたりの地名は佐倉市将門町(まさかどまち)。町名標示でもあれば記念撮影と思ったのですが、あいにく電柱すらありませんでした。



 桔梗塚から400メートル、將門・口ノ宮神社。
「將門・口ノ宮」とはどういう意であろうかと、かたわらにあった石碑を見ると、どうやら平將門と義民として知られる佐倉惣五郎を一緒に祀った神社のようです。
 鳥居に掲げられた神額をよくよく見ると、將門と口ノ宮の間には印刷編集用語でいうところのナカグロ「・」があります。紛れもなく將門神社と口ノ宮神社とが合体しているのです。

 惣五郎は堀田氏(正信)による苛政を藩や幕府老中に訴えたものの、聞き入れられなかったため、承応二年(1653年)、上野寛永寺に参詣する将軍・徳川家綱に直訴したと伝えられています。
 結果、藩主の苛政は収められましたが、直訴は御法度です。惣五郎夫妻は磔。正信が改易されたのはその祟りであるといわれます。しかし、資料には惣五郎が一揆や直訴を行なったという記録はないそうです。



 將門・口ノ宮神社から細く曲がりくねった坂道を500メートルほど下ると、京成電鉄の踏切に出て、京成佐倉の隣・一つ成田寄りの大佐倉駅に着きました。

 日中、停車する電車は1時間に三本しかありません。ちょうど前の電車が出たばかりだったので、どうするべぇかと地図を見たら、駅から近い順に宝珠院、住善寺、勝胤寺と三つもお寺があるので、待ち時間を利して行ってみることにしました。



 人一人しか通れないような線路脇の小径をトコトコ下って行くと、墓地と甍が見えました。これが宝珠院かと思ったら、一番遠くにあるはずの勝胤寺でした。
 戦国期の享禄五年(1532年)、本佐倉城主だった千葉勝胤(かつたね)が創建。



 我が宗旨・曹洞宗のお寺なので、禅道場があるのかと思いましたが、家に帰ったあとで調べると、檀信徒会館でした。
 このあと、勝胤寺より手前にある二つのお寺の入口は違うところにあるのだと思い、歩き始めましたが、結局見つけ得ず、台地を一周するハメとなりました。
 一本あとの電車がくるまで時間を潰すつもりが、乗れたのは三本もあとになってしまいました。

この日、闇雲に歩いた足跡です。佐倉を訪問する前に、自宅→湯島→病院→京成上野と歩いているので、この日歩いた歩数は計三万歩をオーバーしてしまいました。



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