休日が近づいてくると、どこか行くところはないか、と捜すようになりました。ただし、時間にそれほど余裕があるわけではないので、歩けるのは近場に限られています。
ブログの順番が前後しましたが、中山の法華経寺を訪ねる前日の土曜日、行徳の寺町通りを歩きました。
地図を見ると、東京メトロの東西線と旧江戸川に挟まれた地区に、たくさんの「卍」印があります。どんなお寺があるか知れませんが、サテお立ち会い……。
武蔵野線で西船橋に出て、東京メトロ東西線に乗り換え、二つ目の妙典(みょうでん)という駅で降りました。
妙典という地名は、日蓮さんが唱えた「南無妙法蓮華経」のごとく、妙なる経典であるところからつけられた地名だそうです。武蔵野線には船橋法典という駅がありますが、こちらは妙典の人々が開発したところから土地の名がついたといわれています。ただし、読み方は「ほうでん」ではなく「ほうてん」。
最初に訪ねたのは日蓮宗の妙好寺です。妙典駅から徒歩十三分。
切妻茅葺きの四脚門の山門は宝暦十一年(1761年)七月の建立。お寺そのものは永禄八年(1565年)八月、千葉氏一族の篠田雅楽助清久が創建。清久は当時の地頭で、前年の永禄七年の国府台合戦で、千葉氏とともに小田原北条氏に味方をした恩賞としてこの地を与えられたのです。
年に一度、土用の一の丑の日には、頭痛・癇(かん)の虫の虫封じの祈祷や、焙烙(ほうろく)灸加持が行なわれます。
日蓮宗清満寺。慶長二年(1597年)の創建。妙好寺から徒歩六分。
こちらは喘息(ぜんそく)封じ加持祈祷で、旧十五夜の日に限ってやはり年一回。
境内には六匹の子猿を抱えた母猿の石像があり、台座には「おちか三歳」と彫られています。おちかとは猿の名前だそうです。
昔々、子を宿したおちかを鉄砲で撃ち殺した人の娘三人の耳が聞こえなくなってしまいました。その後もその家系に耳の聞こえない娘が幾人も出たそうです。占い師にみてもらったところ、猿の祟りだとのこと。親子猿の姿を彫って供養したのが、その石像ですが、写真撮影は失敗でした。
浄土宗徳願寺山門。清満寺から行徳街道バイパスを横切って徒歩五分。行徳三十三観音第一番。
昔は普光庵という草庵が一つあるだけだったそうですが、慶長十五年(1610年)、徳川家康が帰依することになって、徳川の「徳」と、本寺である勝願寺(埼玉県鴻巣市)の「願」をとって徳願寺と名づけられました。
本尊の阿弥陀如来は、北条政子が霊夢を見て、運慶に彫らせたもので、政子の念持仏だったといわれています。二代将軍秀忠夫人崇源院のために、家康が鎌倉から江戸城内三ノ丸に遷しましたが、夫人逝去後、この寺に安置されることになったそうです。
徳願寺鐘楼堂。山門とともに寺内では一番古い建造物で、安永四年(1775年)の建造です。
徳願寺境内にある宮本武蔵供養塔(?)。
市川市のホームページを見ると、供養塔は山門の左にあると紹介されており、そこに掲載されている地蔵には木の囲いがあり、屋根があります。この画像とは違って白ではなく赤いよだれかけをかけています。
京の都では御所から見た左を左というので、地図で見るときは右が左になりますが、都とは無関係な下総で山門の左といえば、どう考えても寺の入口から山門を見たときの左という意味でしょう。
私が写真を撮った場所は右側です。写真では見づらいかもしれませんが、右に建つ石塔には「新免宮本武蔵藤原玄信二天道楽大徳菩提」と彫られています。
供養塔が「あった」と思ってシャッターを切りましたが、右か左かという齟齬に気づいたのは庵に帰ってからだったので、あとの祭りです。
それはともかく、なにゆえに武蔵の供養塔があるかというと、晩年出家し、藤原玄信と称した武蔵は諸国行脚の旅に出ていますが、一時期、船橋の法典ヶ原の開墾に従事しています。その途中、この徳願寺に留まったという因縁があるそうなのです。
徳願寺の向かいにある日蓮宗常運寺。元和二年(1616年)の創建。行徳には病持ちが多かったのでしょうか。ここも小児虫封じ呪処。
徳願寺と常運寺に挟まれた東西の通りを寺町通りと呼ぶらしい。しかし寺の数でいうと、交差する南北の通りのほうがわずかながらも多いのです。
日蓮宗妙応寺。永禄二年(1559年)創建。
妙応寺の七福神のうち、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人の五神。山門脇に恵比寿と大黒天があります。
寺町通りを挟んで妙応寺と向かい合わせの臨済宗長松禅寺。天文二十三年(1554年)の創建。行徳三十三観音第三番。
今回訪ねた中では一番古いお寺です。小さい寺域ながら境内は緑で覆われ、水は涸れていましたが、小川があるなど、なかなかの幽玄世界でした。我が宗派とは異なるとはいえ、さすが禅寺です。
日蓮宗妙覚寺。天正十四年(1586年)創建。長松禅寺から徒歩三分。
妙覚寺にあるキリシタン燈籠(織部燈籠)。
この地に隠れキリシタンがいたという記録はないそうで、なにゆえにこのような燈籠があるのか明らかではありません。年代的には江戸初期、もしくは前期のもので、千葉県内にはただ一基あるだけだそうです。
中央下部に舟形の窪み彫りがあり、中にマントを羽織ったバテレンが靴を履いている姿が浮き彫りにされている(靴の部分は地中)そうですが、よーく見てもわかりづらい。
妙覚寺と向かい合わせの浄土真宗法善寺。慶長五年(1600年)創建。
別名・塩場(しょば)寺。その名の起こりは開山の宗玄和尚が塩田をつくって、塩焼きの製法を里人に教えたことからだといわれています。
浄土宗浄閑寺。寛永三年(1626年)創建。法善寺から徒歩四分。
日蓮宗円頓寺。天正十二年(1584年)創建。
明治十四年の行徳町の大火事で山門のみを残して本堂、庫裏を全焼。寺宝、寺史も焼失し、また大正六年の大津波によって重ねて失われてしまったそうです。
日蓮宗正讃寺。天正三年(1575年)の創建ということ以外、お寺の都合で詳細は明らかにしないということです。まあ、特別変わった寺院とは思えないし、写真だけ撮って早々に退散しました。
旧江戸川に出ました。対岸は東京都江戸川区です。
あとで知ったので写真は撮っていませんでしたが、円頓寺から浄閑寺まではわずか120メートル、浄閑寺から正讃寺までは100メートルという非常に近い距離で、細い径で繋がっています。
この径は徳川家康が東金、成田付近へ鷹狩りや遠乗りをするとき、今井の渡しで船を降り、船橋へ出るために通った径で、「権現みち」と呼ばれています。
真言宗自性院。天正十六年(1588年)の創建。行徳三十三観音第四番。正讃寺から徒歩七分。
このあと、北隣にある浄土宗大徳寺(行徳三十三観音第五番)を覗いて、この日の散策はおしまいにしました。
ところどころに結構古い民家がありました。十返舎一九も立ち寄った「笹屋」といううどん屋が見つけられれば、写真を撮るつもりでいましたが、道を早めに曲がってしまい、結果は見つけること能わず……。
説明板もなかったので、どのような謂われの建物かわかりませんが、笹屋の身代わりに古そうな家屋を二題。
➡今回の参考マップです。
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