桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

流山七福神巡り結願

2010年11月19日 20時11分38秒 | 寺社散策

 昨十八日、流山七福神巡りで残されていた一つ、西栄寺の福禄寿を訪ね、ついでに、といえるほど近くないのですが……もう一度福性寺のムクロジ(無患子)を見に行ってきました。

 この日の散策はちょっと強行軍です。地図を前にザッと計算すると、我が庵から西栄寺まで約5・7キロ、西栄寺から福性寺までは約3キロ……。
 これは最短ルートを辿った場合で、途中で寄り道をするかもしれないし、福性寺からの帰りは電車に乗るつもりでしたが、最寄りの駅まで歩かなければならない。そんなこんなを合わせると、10キロは歩くのを覚悟しなくてはならないようです。

 朝の段階の天気予報では、昼ごろから晴れるが、夕方には雲が出て、ところによって雨、でした。
 晴れるという時間は少し外れて、九時ごろには陽射しが出ました。このところ、冷え込みが強いので、もう少し空気が暖かくなってからと思い、十一時に庵を出ました。
 出るときにすでに寄り道することを決めていました。

 先日、偶然春山寺というお寺に行くことになって、そこに布袋尊が祀られていたことから、企図したわけではないのに、流山七福神巡りがたまたま残り三つとなって、いっそのこと全部巡ってしまおうと決めたのですが、春山寺から帰ってくるときのこと、地図を見たら「卍」印があって、円徳寺と記されていたので立ち寄ってみたものの、墓所はあったのですが、寺がなかったのです。

 あたりは坂川に削り取られた台地の斜面で、結構深い森があります。その森の中だろうかと思いながら、近づいてみたり遠く離れて眺めてみたりしましたが、寺らしき建物はない。
 どうしても行きたいお寺というのでもないので、その日は見つけられぬまま帰りましたが、庵に帰ってインターネットの地図を極限まで拡大してみると、確かに寺は存在することになっている。
 ところが、グーグルアースに切り替えると、寺を思わせる建物がないのです。
 なんじゃ、コリャ? と思いながら、この日を迎えたというわけです。



 前回見かけた墓所に行ってよくよく眺めると、横に幅1メートルもない砂利道がありました。その先にはこんな小さな大師堂とこの地区の集会所があるだけでした。むろん住む人は誰もいません。



 出発後一時間ほどで流山街道に出ました。しばらくはこの街道沿いに歩きます。
 町中で見かけるイチョウ(公孫樹)はどの樹も黄色く色づいているというのに、この公孫樹並木はほとんど色づいていません。



 茂侶(もろ)神社がありました。
 平安時代初期の延喜式神名帳に名前が載っているというので、由緒ある神社のようですが、奈良県にある大神(おおみわ)神社の主祭神・大物主命を分霊したという説明があるほか、来歴や茂侶という珍しい呼称などについては書かれていません。
 大神神社は別名三輪神社とも三輪明神ともいわれます。このあたりの地名は流山市三輪野山。狛犬のない神社でした。



 一の鳥居(上の画像の鳥居は二の鳥居)横には奉納された大黒天像。



 これは円徳寺を捜し当てる前に見たガマ(蒲)の群落。
 松戸近辺は湧水が多く、湿地帯もあるので、水草を目にする機会は多々あるのですが、蒲を見かけるのは意外に少ない。大黒様を見たので、無理矢理因幡の白ウサギに関連づけたわけです。



 西栄寺に着きました。室町時代の永正十二年(1515年)開山と伝えられる真言宗豊山派の寺院です。



 琵琶首観音像(高さ約160センチ)を祀る観音堂。琵琶首というのは、かつてこの像が祀られていた西福寺という寺があった地名のようです。

 西栄寺を訪れたのは福禄寿に参るためですから
、写真撮影を忘れたわけではありません。
 流山七福神巡りは、これにて一応結願(けちがん)を迎えましたので、画像は七福神を一括して記事の下のほうに載せました。
 
 地図では、常磐道を越えて少し道を外れたところに「卍」の印があって、浄栄寺とあったので、また寄り道することにしました。
 民家の玄関先をかすめて伸びる細い径があって、通せんぼをするように枯れ枝が落ちていました。



 ここも住む人のいない寺。つつましい観音堂と墓所があるだけでした。
 墓は三十基ほどありましたが、中谷と戸張という二家のものがほとんどでした。

 戸張といえば、柏の戸張に城館を構えていた戸張氏があります。千葉氏の流れを汲む武将で、柏駅近くにある長全寺の大檀越でもありました。しかし、理由ははっきりしませんが、何か落ち度があったらしく、隠居させられて、いまの埼玉県吉川市に蟄居することになりました。
 墓石に彫られた家紋を見ると、少しずつ意匠は違いますが、いずれも「丸に橘」でした。
 庵に帰ったあと、本来の戸張氏の家紋を捜してみましたが、武将としては途中で絶えてしまったためか、見つけられませんでした。従って、ここに墓を祀っている各戸張家が戸張氏の流れを汲む家かどうか関連づけはできません。何しろ無住なので、いまのところは手がかりがないのです。



 小径を辿って再び流山街道に戻ると、西善院がありました。
 このあと訪れる香取神社の別当だった寺で、西栄寺と同じ真言宗豊山派。ここも石塔と墓所があるだけで、堂宇がありません。右に見える建物はこの地域の自治会の集会所です。



 香取神社。前回(今月十二日、ブログは十三日)は福性寺から西栄寺を目指して流山街道を南下したのですが、暗くなってきてしまったので、ここで西栄寺へ行くのを諦めたのでした。
 中門には左大臣右大臣の木像があります。京都御所から見た左京区右京区と同じで、左大臣は向かって右側、右大臣は左側。

 香取神社を過ぎると、流山街道はいったん谷を下り、また上ります。
 上ってしばらく歩いたところが中野久木というバス停で、ここで流山街道を離れ、前に歩いた道を逆行します。
 この道は腹を空かせた野良の猫殿がいた道です。前に姿を現わしたあたりでしばらく立ち止まってみましたが、そうそう都合よく姿を現わしてくれるものではありません。

 円徳寺を捜しているころまで、風は冷たく強かったものの、歩いていると暑く感じるほどの陽射しがあったのに、西栄寺に到るころには雲が拡がって肌寒くなり、福性寺に到るころには小雨になりました。いつも当たらない天気予報なのに、ここまで細部にわたって当てるとはたいしたものです。



 福性寺に到着。またムクロジ(無患子)に会いました。
 前回は先を急いでいたので、じっくり見ていません。この日の予定はここでおしまい。まだ二時前という早い時間だったのに、あいにくの雨です。
 振り仰いでみましたが、実はつけていないようです。もしかしたら雄木と雌木があるのかしらんと思って地面に目を落とすと、三つだけ実を見つけました。二つはすでに泥にまみれています。泥のついていない一つだけ拾って家路に就くことにしました。

 七福神を巡り終わったので、寺名と初めて参詣した月日を。
 
 


 長流寺恵比寿(三月二十八日)と流山寺大黒天(同)。

 


 清瀧院寿老人(八月五日)と春山寺布袋尊(十一月八日)。

 


 成顕寺弁財天(十一月十二日)と福性寺毘沙門天(同)。



 そして最後が昨日十一月十八日の西栄寺福禄寿。



 帰りは真っ直ぐ東武野田線の江戸川台駅に出ました。

 初めて福性寺を訪ねた日は、二つのお寺に寄り道したこともあり、そのお寺を捜すときも福性寺を捜すときも道に迷って、駅から一時間以上要しましたが、土地勘を得たこの日はわずか十五分で着いてしまいました。

↓この日歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map79014.html



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