桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

春日部を歩く(1)

2012年07月24日 15時09分06秒 | 寺社散策

 春日部のお寺巡りをしてきました。
 かつては日光道中四番目の宿場町・粕壁宿のあった古い町です。
 地図を見ると、市内を流れる大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)という中川の支流を挟んで、いくつかの寺院があります。とくに著名な寺院はないようですが、歩いてみようと決めて庵を出ました。

 我が庵から春日部に行くのには二通りの経路があります。柏へ出て東武野田線で行くのと、武蔵野線で南越谷へ行き、東武伊勢崎線に乗り換える、という二つです。

 今回は武蔵野線の南越谷で降りて東武伊勢崎線に乗り換えるルートを選びました。

 東武線は真北に向かっていると思いこんでいましたが、春日部駅は地図で見ると、ほとんど真横です。出入り口は東口と西口と名づけられていますが、私が出た東口はほとんど北に向いています。



 春日部は何度か通り過ぎたことがあります。
 最近では今月の薬師詣でで大宮に行った帰り、東武野田線を利用して柏経由で帰ったときに通っています。しかし、頭を巡らせてみても、駅頭に降り立つのは今回が(多分)初めてです。




 まず駅近くにある「ぷらっとかすかべ」(観光案内所)を訪ねて、パンフレット類を手に入れることにします。

 駅から歩いて五分もかからないところを旧日光街道が走っていて、ここに粕壁宿があったのですが、本陣跡、脇本陣跡、高札場跡、問屋場跡……と跡ずくめで、実際に遺されているものは何もないようです。
 駅近辺にある、めぼしい文化財も碇神社に樹齢五百年超の犬楠(いぬぐす)だけ。

 春日部というと……真っ先に思い出すのは「春日部の哲っちゃん」こと今仁哲夫(元ニッポン放送アナウンサー)さんです。



 そのあとは春日部共栄高校出身で中日ドラゴンズに入団した中里篤史投手。讀賣ジャイアンツに移籍したあともパッとしませんでした。
 私は細身で、ビシビシと投げるタイプのピッチャーが好きです。ただこの手のピッチャーは怪我をしやすく、長続きしない人が多い。ヤクルト・伊藤智仁然り。中里も中日~巨人在籍十年のうち、四年間は一軍での登板がなく、一軍での戦績はわずか2勝(2敗)。



 そういえば、こやつめも春日部だったか。いまでは今仁や中里を押し退けて、春日部を代表する存在になりました。



 最初に訪れたのは玉蔵院です。
 承久の乱(1221年)のころ、武蔵から信濃に移り住んでいた春日部刑部三郎貞季は北条泰時の京都攻めに途中から加わり功を上げたのですが、宇治橋の戦いで討ち死にしてしまいました。
 延元元年(1336年)、春日部左近蔵人家縄がこの霊を弔うため、館の東側・川戸寺地に僧俊栄に依頼して建立。




 妙楽院(真言宗智山派)。慶長十二年(1607年)の創建。



 たいそう立派な山門です。

 


仁王像。



 成就院。ここも真言宗智山派の寺院。「春日部市史」には「慶長十二年に順清が中興開山、古くは浜川戸耕地にあり阿弥陀寺と称す」とあります。



 四番目に訪れたのは最勝院です。



 山門をくぐると桔梗の花が咲いていました。



  ここも真言宗智山派の寺院です。
 本尊は千手観音で弘法大師の作と伝えられています。



 普門院。ここも真言宗智山派の寺院。
「新編武蔵風土記稿」には「同年(慶長十二年)
永智といへつ僧の起立と云、本尊阿弥陀」とあります。

  古利根川(右)と古隅田川の合流点に架かる新町橋を渡ります。橋上から上流の眺め。〈つづく〉



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