『心の健康を求めてー現代家族の病理』より-女性の社会進出と同一性形成-仕事をもつ女性の増加
「‐価値観の多様化‐
最近の思春期の患者さんをみていると、本人の病状はそう大したこともないのに、彼らを包む家庭環境の凄さに瞠目することが少なくない。心の健康を考える大切なヒントは、患者さんの病態そのものよりも、背後のこうした側面に隠れているものである。私は、これからそうした視点で観察したことを報告することにしたいと思っている。
ただここで使った《凄さ》という言葉の説明が必要であろうか。それは、私がこれまでもってきた普通の姿かたちと考えているものとはずいぶんと掛け離れているという意味である。50代半ばを過ぎた私の感覚のことであるから、現代感覚からすればごく普通なのかもしれないが、私にとっては一般的とはいい難いのである。つまり、そこには昔とは違ったという意味が込められているわけである。さらに私は、長年九州で生まれ育ち、50代になって上京してきた人間である。それだけに文化の違いといったものまで含まれていることを告白しなければならない。いわば《凄さ》とは空間と時間を掛け合わせた変化を指しているわけである。それだけに、《凄さ》が異常を示しているわけではないことは力説しておきたい。価値観が非常に多様化した現在、何をもって正常とするのか、比較する基準がないのである。むしろ、それぞれに与えられた環境を自らの創意と工夫で生きている姿ととった方が正しいであろう。治療を求めてきた子どもの家庭が治療を求めない私自身の家庭よりも非創造的とは決していえないのである。否、そうした家庭の方がはるかに創造的と思うことが少なくない。
症例を紹介する前に、まず強調しておきたいことである。ただ症例は、プライバシーを守るために、社会的背景その他の事実に多少の手を加えていることを、述べておきたい。
‐ある家族‐
14歳になるS子は、視力低下のため、別のある大学の眼科の先生の紹介で私の外来を訪ねた。10歳ころから視力低下を訴えて、近くの眼科で治療を受けていたが、最近になって経過が思わしくなくなったため大学病院を受診したのであった。外来でいろいろ検査をしてみたものの病態がはっきりしないため、入院させて精密な検査をすることになったのであった。しかし、入院すると症状が改善するため、退院するのだが、またわるくなるということで、精神的な問題があるのではないかということでの紹介であった。精神科を受診した後、いろいろと話を聞くうちに症状は消失したが、そのなかで明らかになった複雑な家庭環境と生活史とは、私をひどく驚かせるものであった。
S子には三人目の母親がいる。実父はセンスのある洋品店の経営者で現在40代である。最初の結婚、つまりS子の実母との結婚は6年ほど続いた。しかし実母は実父の親友である男性と親しくなったため、S子が4歳のとき離婚が成立した。まもなくすると、二度目の結婚が成立して、新しい母親をもつことになるが、この継母は決して家庭的ではなかったという。家を空けることが多かったのである。そうするうちに他に男性ができて、これまた離婚になったらしい。その状況をみていたその継母の親友が義憤からS子の世話をするようになったが、時の経過とともに、父親との間が関係が生じて、妊娠したのをきっかけに、後妻として入ったのであった。現在4歳の異母妹がいる。
右のような家族は、芸能人や芸術家、さらにはある種の実業家にはままあることで、それほど驚くに当たらないが、S子の実母や義母に対する態度がひどく現代的で、少々特異な様子が私の注目を引いたのであった。
実母は離婚後も幼い頃からS子にはいろいろの機会に贈り物をしていたらしい。S子もS子でそれに気づいていた節はある。さらにまた、小学5、6年ころには実母からの贈り物を「うれしい」といって受け取るようにもなっていた。一方、診察場面で実母のことを聞くと、自分を置き去りにした『わるい母親』といった側面がまず前面に出て、さらには贈り物をしてくれる『よい母親』もまた存在するのである。しかも、三番目の母親ともよい関係で、異母妹の世話をよくさせられているともいう。継母に気兼ねして、実母に距離をおくこともしなければ、継母に距離をとることもしない。それでいて実母とも結構うまくやっているのである。もちろん、付き添ってきた継母もまた、実母とS子の関係を気にしている様子はないのである。いわば、いかにも開放的でこだわり、葛藤がないという印象である。
加えて、私の興味を引いたのは、トウチャン、カアチャンなる年配の男女が対でいて、この二人が家庭的なことをいろいろとやっているらしいことである。こうした状況に対して、父親は「私のモットーは風通しをよくすることだ」と胸を張り、それなりに恰好がついているのである。
患者の状態だけみれば、複雑な家庭環境のなかでS・フロイトが描いたエディプス・コンプレックスを基盤にしたヒステリー症例であると理解することができるが、注意を要するのは、一般のエディプス葛藤にみられるような緊張が見られないことである。たとえば、継母とそれなりにうまくやっている一方で、実母ともうまくやっていける心性がここにはある。普通のエディプス葛藤の下では、継母とうまくやっていくためには、継母に対する配慮から実母との間で距離をとるとか、隠れて接触をとるとかがあるものだが、それがないのである。明けっ広げである。また、実母に対する態度も私のような昔の人間には理解できない。自分を置き去りにした恨みを口にしながら、贈り物には何の抵抗もなく喜んで受け取るのである。どうみてもエディプス葛藤があるとはいえないのである。実母と関係を結んだなかで形成されている自己・対象単位と継母との間で形成されている自己・対象単位とはそれぞれ別々に、同じく実母に向けた恨みをめぐる自己・対象単位と贈り物をめぐる自己・対象単位とは別々に矛盾なく併存していて、両者の間には統合がないのである。おそらく全体からみても、重大な矛盾がごろごろしているのに、当人たちには、それを矛盾とは感じずに、いかにも自由奔放な雰囲気のもとで、機能しているといってよいであろう。そこには分裂機制を中心にした未熟な防衛活動が主役を演じていることを考えておかねばならない。
もうひとつ考えておかねばならないのは、T・リッツが描いた夫婦歪曲ともいえる家庭構造ができあがっていることである。父親を頂点にして数名の大人たちが彼に従い、この子どもたちも成長すればおそらく同列にならぶ日も近いのではないかと思われるような家族である。しかもトウチャン・カアチャンといった家庭外の大人たち(いわば異物)まで家庭内に入り込んでいることも、重要なことのような気がする。いわば、家庭と家庭外の環境との間の境界がはなはだ不鮮明なままに、ひとつの集団が形成されている。父親を頂点にして、実母、継母、S子、異母妹がいて、その外側からトウチャン・カアチャンが支えてまとまりを形成するという構造になっているのである。そして忘れてならないのは、父親の風通しをよくするというのはこの閉鎖社会の内部においてであって、その他の外部に対してはなはだ閉鎖的だということである。これは、これまでの家族に代わる新しい家族的集団といえるものではないか。そんな気がしてならない。
‐家族構造の変遷‐
近年、家族構造が変化してきていることは、よく指摘されている。とくに、思春期の症例をみていてその感をつよくすることが多い。思春期の病態は、この時期がまだ家族との絆の上に成り立っているだけに、家族の問題をよく反映しているし、それがまたそれを包む社会の文化・時代精神をよく表しているのである。先述の家族は、どのような変遷をたどって形作られてきたものであろうか。
そういう視点から、思春期の専門家の間で話題になった病態の変化をたどると、意外と10年ごとにかなりはっきしした推移のあることがわかってくる。そして、その背後にまた家族構造の基本的な変化がみえてくる。
たとえば、投稿拒否が登場したのは1960年代になってからである。それまでの病態といえば、家父長的な家族を基盤にして出てきた赤面恐怖や対人恐怖であった。学校の成績はよく、行儀正しい、親に期待された子どもたちであった。そして、専門家の目にとまったことは父権が大きく失墜していく家族の姿であった。教育ママという新しい母親が、父親をして粗大ごみに仕立て上げ、これまでの家父長的な家族像を壊したことは記憶に新しい。当時の専門家は仕事に没頭する父親に早く家に帰って家庭内の地位を確保するように呼びかけたものであった。当時流行したマイホーム主義運土の実態はそういうものであった。しかしながら、父権の凋落は止まるところがなかった。
そして、1970年代になると、私たちは家庭内暴力という新しい病態をもることになった。注目すべきは、普段は非常に穏やかである青少年が、ちょっとしたきっかけで狂ったように殴る蹴るの乱暴を働くのである。穏やかな青年と乱暴する青年とが別々に併存するかのような人格、いわば人格の分裂をみるようになったのである。そして忘れてならないのはこれらの患者の描く得意な家族像である。これらの子どもが「うちの親は」という言い回しをする不自然さに気付いて、「君のいう親おてゃ、お父さんのことか、それともお母さんのことか」と聞き直すと、彼らは「どちらも同じようなものです」といったものである。そして、興味深いのは、ニューファミリーなる家族像が新聞その他で世間を賑わすようになったことである。ニューファミリーとは、従来からあった家庭内の父親と母親、夫と妻、男と女、親と子の間の役割分担をなくそうとする、当時流行しはじめたフェミニスト運動の一環である。またこの種の症例は男子に多いとされたが、同時に拒食・過食の患者が多発するようになったことも忘れてはならない。過食拒食は女性に多く、同時に家庭内暴力、手首自傷をももっていた。いわば、荒れる思春期の女性患者の増加がみられるようになったのである。男性に多いとされた対人恐怖、登校拒否に代わって、あるいは男性患者と並行して、女性患者が精神科医療で重要な地位を占めるようになったことは、注目に値する。
さらに1980年代になると、校内暴力、弱い者イジメが世間の注目を浴びるようになった。この種の家族像の特徴は、父親が家庭から姿を消したことである。会社人間で家族を全く顧みない父親だけではなしに、アルコール依存症で精神病院に出入りする父親、会社の不快を家に持ち込んでは家族に当たり散らす父親といった、家庭にあって役割を果たせない父親たちの姿であった。面白いのは、当時その姿を写し出すかのようにシングル・マザーなる言葉が欧米で流行し、わが国でも話題になり出したことである。現在、非婚の母親という邦訳が出ているが、これは愛する男性との間に子どもをもうけたが、故あって結婚できあに未婚の母親とは異なる概念である。未婚の母親には、子どもに父親のことを聞かれたとき、実際に語る語らないとは別として、語ってやるこの子の父親というイメージなり概念なりがあるのであるが、非婚の母親にはそうした父親像はない。「僕のお父さんはどんな人なの」と聞かれたら、きっと「どうでもいいの。あなたは私の子どもなんだから」という返事しか返ってこない関係である。
そして1990年代になって、日本にはないとされた幼児虐待、性的虐待をみるようになった。こうした問題をもった家族には、男と女である夫婦が子どもを得て母親と父親に変貌していく姿が希薄であるという特徴があるような気がする。先に描いた家族は、虐待例ではないが、基本的には、周囲から支えるトウチャン、カアチャンに守られた、男と女のゲームを中心にした家族の姿をみる思いがするのである。
-現代の家族の特徴-
以上をまとめると、最初に描いた家族のすがたは、父親像が希薄になって母親像が次第に前面にで、さらにはその母親が母性性を拒否するような経過の中で生じた家族ということができる。折しも、世間では夫婦別姓が法律的にオーソライズされそうな気配である。
父親を中心にした家族が時代の流れに合わなくなったことは認めるとしても、それでは母親がそれに替わる存在となった家族がより時代に合った姿かたちになるかとなると、それも座りがわるいらしい。結局は、お互いの結びつきをつよめないかたちで、お互いがこれまでの自分を保持しながら形成する家族が、差し当たっては無難であるかのようである。このまま収まりそうになりことは論じるまでもない。ただ、これからどのような家族像の展開を示すかは想像できないので、話はこれで終わるよりしかたないが、問題は、これらの家族の揺らぎが子どもの精神発達にどのような影を落としているかであろう。
ひとついえることは、子どもの人格の統合性を難しくし、自己愛性をつよめる結果になっているということである。統合の難しさは、穏やかな青年が大したきっかけもなく突然激しい行動に出てしまったり、人間関係を作っても容易にくずしたり、人間関係を作るのを避けたりといった人間像のなかにみることができる。人格の分裂といわれる現象である。自己愛性というのは、自らの行為の結果に対する考慮のなさ、つまりこういうことをしたら相手に迷惑をかけるという感覚の欠如である。要するに、未熟な人格が成長しないままに存在することである。
注意すべきは、この未熟さは何も子どものものだけではないということである。親たちも、つまり家族全体が共有しているものなのである。それだけに、何かちょっとしたきっかけで激しい混乱を来したり、容易に解散したり(離婚)、あるいは病気になったり(うつ病)しやすくなるのである。
この家族の形態は、個人の自由を最優先させるとき便利なのかもしれない。我慢に我慢を重ねて、自由のない旧来の家族を作るより、その方がずっと楽なのである。しかし、子どもたちが大人へと成長する過程で非常にしばしば同一性の混乱を起こし、苦しまねばならないことは、私たちが臨床現場で経験する通りである。どうも、最新の家族形態だけでは、ことがうまく運ぶとはいい難いといわねばならない。今後、それがどのような経過をたどって推移していくのか、実のところ見当がつかない。しばらく流れにゆられていくよりほかないが、その家庭であらわになってくる諸問題には敏感でありたいものである。」
(牛島定信『心の健康を求めて-現代家族の病理-』慶応義塾出版、1998年11月15日初版第一刷、3-12頁より)