「もし、国立画廊に蒐集(しゅうしゅう)された名画や、大英博物館の大理石像や、王室図書館におさめられている古代の印刷物や中世の彩飾に、とつぜん破壊の手が下されたとしたら、いかなる悲鳴が全世界に聞かれることであろう!しかも、これらは人間の手と頭脳が作りだしたものにすぎない。それは、やがては朽ちはてる物質に個々の天才をしるしづけたものであって、これを不朽といっても、それは死んだガがのこした絹のまゆを不朽というのと同じなのである。なぜなら、それらは、それを作った芸術家の手と頭脳が塵と化し去ってもなお輝き存在しているからだ。そして、人類には無限の未来があるから、いつか再びこれらと同じようなものを作りすかもしれないし、もし進化ということになんらかの真理があるとすれば、これらのものよりもさらにすぐれたものを作りだすかもしれない。これに反して、哺乳類と鳥類という二つの高級な脊髄動物に属する生物は、自然の最も完成した作品であって、そのどの一種をとってみても、それが教えること、もし存在を許されればこの後も教えつづけるであろうことを考えれば、人類にとって、それは世界の蔵するすべての大理石の彫刻とすべての彩られたカンバスよりも、はかりしれないほど大きな価値を持っているのだ。
もっとも、芸術には献身しても、芸術以上に偉大なものがあることを知らない多くの人々は、このようなことをいうわたしを俗物ときめてしまうだろうが。それ故に、わたしたちは、なにをおいても、その大きさとか、その美しさとか、そのめずらしさとかのために、それから、それらを最も多く殺した者に与えられるあのいまわしい虚偽の名誉のために、第一に殺戮の目標にえらばれた、自然の傑作ともいうべき動物たちを保護し神聖視しなければならない。昔、これらは最も生命力に燃えている動物だったので、彼らとともにこの地上にいた他の動物が死に絶えた時、彼らだけはより永存価値があるものとしてのこされた。彼らが時の海をただよってわたしたちのところに流れついた不滅の花ともいうべく、彼らのめずらしさと美しさとは、わたしたちの想像に、人間が未だ存在しなかった、はるか遠い昔の世界の夢と絵をもたらすものだ。そして、彼らが滅び去るときは、自然界の喜びのいくぶんかがけずりとられ、太陽の輝きはそのいくぶんかを失ってしまう。
さらに彼らを失うことは、わたしたちおよびわたしたちの時代のみに影響するものではない。南米のみではなく地球上いたるところで現在殺しつくされつつある動物の種は、わたしたちの知るかぎりでは、未だ退化の手が及ばないものたちである。彼らは一連のくさりの一環であり、思惟をこえた遠い昔に根を持つ生物の樹に生えた枝であって、わたしたちがそれを滅しさえしなければ、彼らは永久に繁茂をつづけ、過去と同じく遠い未来までのび、今よりさらに高級なさらに美しい花を開き、わたしたちの無数の世代の子孫を喜ばすだろう。しかし、わたしたちはこういうことを少しも考えない。わたしたちは生物を殺す欲望をほしいままにせねば気がすまない。たとえ、そうすることによって、次の言葉を使った詩人の意図する意味よりいっそう真実で広く、そして無限に悲しい意味で「詩の偉大なる作品を滅している」のであっても。このおそるべき狩猟の熱がさめきったとき、そして、比較的巨大な動物がもはや一つもいなくなったとき、わたしたちは、はじめて、自分たちが終身保有権のみを有しているにすぎないわたしたちの世襲物に、現在わたしたちが与えつつある損害の意味が正しく理解されるだろう。
絶滅した動物に関するわたしたちの研究所と、どこか幸運な場所の博物館におそらく、五、六世紀くらいは保存されるかもしれない、わずかの崩壊してゆく骨と色あせた羽毛とで、わたしたちの子孫が満足するであろうとは、想像することも望むこともできない。それどころか、このようにわびしい記念物は、子孫たちに、滅びた動物たちを思いださせるよすがとなるだけだろう。そして、もし彼らがわたしたちを記憶するとすれば、それはただわたしたちとわたしたちの時代とを憎む気持ちからだけだろうーこの文明開化せる科学的、博愛的時代を。それはその標語として、次の言葉を持つべきである。「われらをしてすべの気高く美しきものを殺さしめよ。われら明日死すべければなり」。」
(ハドソン著・岩田良吉訳『ラ・プラタの博物学者』岩波文庫、1934年2月10日第1刷、1978年12月10日第12刷発行、35-38頁より)