フランクル『夜と霧』より-医師、魂を教導する
「こんなふうに、わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰(つい)えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ! わたしたちはもう、みっともない裸の体のほかには失うものはなにもないことを知っていた。早くもシャワーの水がふりそそいでいるあいだに、程度の差こそあれ冗談を、とにかく自分では冗談のつもりのことを言いあい、まずは自分自身を、ひいてはおたがいを笑い飛ばそうと躍起になった。なぜなら、もう一度言うが、シャワーノズルからはほんとうに水が出たのだ・・・!
やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。わたし自身は、生命がただならぬ状態に置かれたときの反応としてのこの心的態度を、別の場面で経験したことがあった。それまでにも生命のの危険に晒されると、たとえば山で岩場をよじ登っていてずるっと足を滑らせたときなど、その数秒間(あるいはたぶん何分の一秒間か)、ある心的態度でこの突発的なできごとに対処していたのだが、それが、自分は命拾いするだろうか、しないだろうか、骨折するなら頭蓋骨だろうか、ほかの骨だろうか、といった好奇心だった。
アウシュヴィッツでもこれと同じような、世界をしらっと外からながめ、人びとから距離をおく、冷淡と言ってもいい好奇心が支配的だった。さまざまな場面で、魂をひっこめ、なんとか無事やりすごそうとする傍観と受身の気分が支配していたのだ。わたしたちは好奇心の塊だった。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、24-25頁より)