フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活
「このような精神的に追いつめられた状態で、露骨に生命の維持に集中せざるをえないというストレスのもとにあっては、精神生活全般が幼稚なレベルに落ちこむのも無理はないだろう。被収容者仲間のうち、精神分析に関心のある同業者たちのあいだでは、収容所における人間の「退行」、つまり精神生活が幼児並みになってしまうことがよく話題になっていた。この願望や野心の幼時性は、被収容者の典型的な夢にはっきりとあらわれた。
被収容者がよくみる夢とは、いったいどんなものだったか。被収容者はパンの、ケーキの、煙草の、気持ちのいい風呂の夢をみた。もっとも素朴な欲求がみたされないので、素朴な願望夢がそれをみたしてくれたのだ。そうした夢をみた者にとって、収容所生活という現実に目覚め、夢の幻影と収容所の現実のおぞましいばかりのギャップを感じたとき、夢がどのような意味をもつかは、また別の話だ。
とにかく、あれは忘れられない。ある夜、隣で眠っていた仲間がなにか恐ろしい悪夢にうなされて、声をあげてうめき、身をよじっているので目を覚ました。以前からわたしは、恐ろしい妄想や夢に苦しめられている人を見るにみかねるたちだった。そこで近づいて、悪夢に苦しんでいる哀れな仲間を起そうとした。その瞬間、自分がしようとしたことに愕然として、揺り起そうとさしのべた手を即座に引っこめた。そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、すんでのところで仲間の目を覚まして引き戻そうとした、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実に較べたらまだましだ、と・・・。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、46-47頁より)