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ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』-思い出し日記 - たんぽぽの心の旅のアルバム (goo.ne.jp)
(2018年ミュージカル・コメディ『キス・ミー・ケイト』公演プログラムより)
「コール・ポーターの絢爛たる生涯と、最高傑作『キス・ミー・ケイト』について
中島薫(音楽評論家)
「ハロー・ミュージカル!プロジェクト」の第3弾として昨年上演され、大好評を受けての再登場となったのが、1948年初演の本作『キス・ミー・ケイト』だ。この傑作ミュージカル・コメディを華やかに彩る、名曲陣を生み出したのがコール・ポーター。初演から70年を経ても、その魅力を失っていない楽曲と彼の足跡を紹介しながら、作品の見どころに迫ろう。
-世界中を豪遊して贅を極める-
〈ナイト・アンド・デイ〉を始め、〈エニシング・ゴーズ〉や〈ビギン・ザ・ビギン〉、〈アイ・ラブ・パリ〉に〈トゥルー・ラブ〉。コール・ポーターの代表曲から、ほんの一部を挙げてみたが、往年のミュージカル・ファンやジャズ好きの方はもちろん、若い皆さんも、これらの曲を一度は耳にしているだろう。
ポーター(1891~1964年)こそは、ブロードウェイのみならず、アメリカ音楽史に多大なる足跡を残した作詞作曲家だ。スタンダードとなった前述の名曲を含め、今も多くの歌手やミュージシャンに愛されている楽曲を放った。本作『キス・ミー・ケイト』は、ブロードウェイにおけるポーターの最大ヒット作で、傑作ナンバーで固められている。
ポーターと同世代のソングライターが、アーヴィング・バーリン(1888~1989年/ホワイト・クリスマス)や、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年/サマータイム)ら錚々たる面々(カッコ内は代表曲)。ブロードウェイを制覇し、ポピュラー音楽の礎を築いた偉人たちだった。ただポーターと彼らが違っていた点が、生まれ育った環境だろう。インディアナ州の旧家出身の彼は、資産家だった母方の祖父のおかげで、10代でフランスやスイスを豪遊する究極のボンボン。音楽に関しては幼い頃から才覚を示し、10歳の時に初作曲。名門イェール大学入学後は、フットボール・チームの応援歌などを創作する。第一次大戦後はパリに居を移し、名士を招いてパーティー三昧の日々を送った。
-強靭な精神力で苦難を乗り切る
この「育ちの良さ」こそが、ポーター最大の特質だった。冒頭で触れた(ビギン・ザ・ビギン)に代表されるように、メロディーラインはゆったりとスケールが大きく、甘美な異国情緒を鮮やかに表現。曲のテイストが浮世離れしている上に、実にカラフルなのだ。ブロードウェイでは1930年代から頭角を現し、今も再演を繰り返す『エニシング・ゴーズ』(1934年)などの秀作を放つ。私生活では、やはり富豪のリンダ・トーマスと、1919年にパリで結婚。ポーターはゲイ、夫人も同性愛者という関係だったが、お互いの才能と魅力を認め合う夫婦だった。
ところがポーターの人生は、1937年に一変する。NY郊外で、乗馬を楽しんでいる時に落馬。運悪く、馬が彼の身体の上に倒れ込んだのだ。すぐに両足を切除しなければならない程の大怪我だったが、妻はポーターが廃人と化すことを恐れ、切断を拒む。その後、30数回にも及ぶ手術を繰り返しながら、創作活動を続けた。間断なく襲う激痛との闘いだったが、作詞作曲に没頭する事で、少しでも痛みを忘れようとしていたのだろう。
事故以降は、『パナマ・ハッティー』(1940年)などのヒットと凡打が交互する。そして、自分の感覚を発揮出来るミュージカルを模索しながら、ついに巡り会った作品が、ポーターの集大成となった『キス・ミー・ケイト』(1948年)だったのだ。
-ポーターのエッセンスを全て凝縮-
主役は、『じゃじゃ馬ならし』を上演する一座で、演出と主演を兼ねるフレッドと、彼の元妻で看板女優のリリー・加えて、脇を固める女優ロイスと恋人ビルが、舞台裏で起こすゴタゴタを、劇中劇と絡めながら進行する。この秀逸な後世を考案したのが、脚本家チームのベラ&サミュエル・スピワック。ベラから依頼を受けたポーターは、才能をフルに発揮し、優れたナンバーを提供した。
まず最大のヒット曲となったのが、一幕でリリー、二幕ではフレッドによって歌われる情熱的なラブ・バラード〈ソウ・イン・ラブ〉。濃密かつ芳醇な旋律に酔わされる。極めつけの名曲だ。他にも、オープニングの心弾むショウビズ讃歌〈またショウが始まる〉や、昔日を懐かしみながら、フレッドとリリーが歌うワルツ〈ウンダバー〉など、ミュージカルの醍醐味に溢れた佳曲が揃う。特に後者は、ウィーンの色香漂うメロディーに乗せて、「星のように」、「月の下で」、「完璧な夜」と常套句を散りばめ、オペレッタの見事なパロディーへと昇華させている。
また前述のように、若い頃には享楽的な生活を送ったポーター。コミカルな中にも、セクシーで官能的な表現を使う事を好んだ。ロイスが恋人ビルに、「軍人さんや石油成金と浮名を流したけれど、心はあんた一筋」と歌う〈あたしの愛し方〉は、その好例だ。
-今なお色褪せぬ上質な楽曲の輝き-
そしてポーターと言えば、「リスト・ソング」。つまり固有名詞や人名を、韻を踏みながらリストのように羅列し、鋭いウィットと軽妙洒脱なセンスを感じさせる作詞術だ。本作では、借金の取り立てに来たはずが、舞台の楽しさにはまってしまったギャング二人組が歌い踊る、〈パクろう シェイクスピア〉がその代表格。『オテロ』や『お気に召すまま』などのタイトルを挙げながら名セリフと絡め、「シェイクスピアで口説けば、女はイチコロ」と結ぶあたりは、まさにポーターの真骨頂だ。
初演は、続演1,077回のロングランを記録。演劇界のアカデミー賞に相当するトニー賞では、最優秀作品賞や作詞作曲賞など主要5部門で受賞した。この大ヒットを受けて、1953年に映画化(日本での公開は1987年)。その後ブロードウェイでは、1999年にリバイバルされた。こちらも好評で、トニー賞では最優秀リバイバル賞など、5部門で受賞(続演881回)。そして来年2月には、ブロードウェイで20年振りの再演が予定されている。
ポーターは『キス・ミー・ケイト』以降も、『カン・カン』(1953年)、『絹の靴下』(1955年)とブロードウェイで快作を連発し、ハリウッドでは、「上流社会」(1956年)や「魅惑の巴里」(1957年)などのミュージカル映画にオリジナル歌曲を書き下ろした。しかし、1954年に愛妻リンダが死去。さらにその4年後には、悪化した右足を切断する。それからは創作意欲も失せ、かぎられた友人と会うのみの隠遁生活を送ったあと、1964年10月15日にひっそりと亡くなった。享年73。波瀾万丈の生涯だったが、ポーターが遺した楽曲には、ブロードウェイ黄金期の瑞々しい輝きと躍動感が横溢している。この『キス・ミー・ケイト』で、その真髄を存分に満喫していただければ幸いだ。」