会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師伝⑧『依憑天台集』で法相や真言などの他宗を批判

2021-10-13 13:58:57 | 天台宗

 

 伝教大師最澄にとって衝撃であったのは、桓武天皇が延暦25年3月17日に70歳で崩御されたことです。このため桓武天皇の御功績を讃えるために、比叡山では毎年3月17日を天皇講と称し、御供養申し上げる行事は現在も続けられています。 
 天台宗の年度分限者が認められるようになったわずか2カ月半後に桓武天皇はお亡くなりになられたのでした。また、その御栄に浴したのは天台宗ばかりではありませんでした。それ以前は法相宗と三論宗とで10名の割り当てがありましたが、それは形式上のことであり、国からお墨付きをもらいという権威づけではありませんでした。
 だからこそ、法相宗の勝虞らの5名の僧綱が「仏法の太陽が沈んでしまおうとしている時に、天皇の戈(ほこ)によって再びあげられ、仏法の綱が殆ど切れそうになってしないそうになっているのに、天皇の心の索(つな)そそえることによってまた続くことが出来るように」「釈門の老少誰か抃躍(べんやく・手を打って喜ぶ)せざらん」(『最澄辞典』田村晃祐編)と述べたのでした。伝教大師最澄は日本仏教の再興にも大きな役割を果たしなのでした。
 これによって、南都の律宗と華厳宗は各2名、三論宗と法相宗は成実宗と俱舎宗を加えて3名ずつとし、そこに天台宗2名が割り当てられたのです。前回も書きましたように、天台宗の2名には、それぞれ『摩訶止観』と『大日経』を専門に読むべき僧という条件が課せられたことで、天台円教と密教が盛んになる道筋が作られたのでした。弘法大師空海との急接近もそうした背景があったのです。
 しかし、それは伝教大師最澄の本意ではありませんでした。中国に出かけて学ぼうとしたのは、大乗仏教の天台の教えであり、法華経であったからです。そこで弘仁7年(816)『依憑天台集』を著わし、南都六宗や密教の根本には天台の教えがあると主張したのです。
 これがきっかけとなって会津在住の法相宗の僧徳一との論争が繰り広げられることになりましたが、弘法大師空海は一切反論することはありませんでした。
『依憑天台集』の序文において、伝教大師最澄は「天台(智顗)が伝える法は諸宗にとって明鏡である。陳、隋以降、唐が興る以前、[天台という]人は歴代[皇帝]から大師と称され、[天台が伝える]法は諸宗によって証拠とされてきた」(大竹晋訳『現代語訳最澄全集・第一巻入唐開宗篇』)と書いたのです。   
 伝教大師最澄からすれば、もっとも古いのが天台であり、その影響を受けなかった諸宗はなかったと断じたのでした。さらに、伝教大師最澄は、法相宗については「[玄奘(602―664)が法相宗の所依の経綸を翻訳し始めた]貞観19年(645)、権(“方便”)が振るい、実(“真実”)が隠れた日に、家々は義憤を発し、人々は実が滅びたのを歎き、雄雄しい筆を執って檄を馳せ、よこしまな敵を摧(くだ)いて幢(はやぼこ)を建てた。そうでありにせよ、海外における内額の者(仏教徒)はただ吠え声を出す苦労を有するだけであり、いまだ知が少ない事の委曲を理解していない」(『同』)、真言宗については「新しく来た真言家(真言宗)は[面受の相承を重んじ、]筆授の相承を滅ぼしている」と批判したのです。法相宗を中国に伝えた玄奘の訳が間違っていると指摘するとともに、書物に重きを置かない空海の真言宗も痛烈に批判したのです。

 

 


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