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【写真】は高校一年生のときに、祖父の鍛冶場(海南市井田22)で撮ったものです。
丁度40年前のことです。
昭和40年~
物心がついたころから
近所には、駄菓子屋をはじめ
八百屋、果物屋、たばこ屋など個人経営の店だらけでした。
祖父の鍛冶屋もそんな時代を活きてきました。
その仕事場(お店)は
和歌山県海南市井田にあり、祖父は
西牟婁郡秋津川村で名高い鍛冶の船原安松氏の門下生でした。
なんでも田辺城主、安藤家とは刀剣の面で主従の契りをもつ鍛冶職の血筋を
師匠にもっただけに、地域の里人からは
祖父のうった、研いだ刃物の切れ味は高く評価されていると母から聞きました。
祖父が海南市の井田に鍛冶屋を構えたのは昭和5年ごろだと母の話だと・・・
笠野染工から来る道と、日方朝日町から連なる道、
つまり大野へ出る道で関所のような地点が祖父の鍛治場でした。
(大野県道からの道路が店の前へ通じ三角辻であるところ)
その鍛冶屋は
今現在はありません。
今からおよそ40年くらい前の話です。
子どもの頃は、祖父のような
職人さんは日本全国におられました。
つまり個人商店です。
今は、少なくなりました。
そんな時代を見てきているために、
私は個人での仕事を出来るだけ続けていきたいと思って
鴻心館合気道というローカル道場を続けています。
職人は、孤独が当たり前で
開発も
技術を磨くのも
お客さんをとるのも
自分が動かないことには回っていきません。
大卒で証券会社に就職をしましたが
サラリーマンは私には合わずに丁度3年間で脱サラしました。
鍛冶場の裏の火の見櫓の下で祖母と撮影(2才)
丁度40年前のことです。
昭和40年~
物心がついたころから
近所には、駄菓子屋をはじめ
八百屋、果物屋、たばこ屋など個人経営の店だらけでした。
祖父の鍛冶屋もそんな時代を活きてきました。
その仕事場(お店)は
和歌山県海南市井田にあり、祖父は
西牟婁郡秋津川村で名高い鍛冶の船原安松氏の門下生でした。
なんでも田辺城主、安藤家とは刀剣の面で主従の契りをもつ鍛冶職の血筋を
師匠にもっただけに、地域の里人からは
祖父のうった、研いだ刃物の切れ味は高く評価されていると母から聞きました。
祖父が海南市の井田に鍛冶屋を構えたのは昭和5年ごろだと母の話だと・・・
笠野染工から来る道と、日方朝日町から連なる道、
つまり大野へ出る道で関所のような地点が祖父の鍛治場でした。
(大野県道からの道路が店の前へ通じ三角辻であるところ)
その鍛冶屋は
今現在はありません。
今からおよそ40年くらい前の話です。
子どもの頃は、祖父のような
職人さんは日本全国におられました。
つまり個人商店です。
今は、少なくなりました。
そんな時代を見てきているために、
私は個人での仕事を出来るだけ続けていきたいと思って
鴻心館合気道というローカル道場を続けています。
職人は、孤独が当たり前で
開発も
技術を磨くのも
お客さんをとるのも
自分が動かないことには回っていきません。
大卒で証券会社に就職をしましたが
サラリーマンは私には合わずに丁度3年間で脱サラしました。
鍛冶場の裏の火の見櫓の下で祖母と撮影(2才)
