読書の森

蘇る記録


古本市には心惹かれるものがかなりありました。
戦前の巷のスターのプロマイドや絵葉書、ポスター、浮世絵まであったのです。

私は昨日再度訪れました。
戦後生まれには違いないのですが、周りに大人が多くて戦前の思い出をたっぷり聞かされました。
何故か、今も戦争中の満州の映画の映像(多分リバイバル)がくっきりと私の脳裏に刻み込まれているのです。
まるで、体験した事のようで、不思議なのですが。

そこで、今日は購入した昔の絵葉書と未だ私の手元に残る写真を紹介したいと思います。



絵葉書は陸軍恤兵部(当時の兵士の慰問を扱う部署)が発行した非売品です。
「じゅつへいぶ」と読みます。

揚子江です。



戦時中、全国各地から兵士に慰問文が集まって、兵士もそれに応えて手紙をやり取りしていたのです。
兵士の部隊名や名前は恤兵部が管理して公表していたのでしょう。
若い女子学生からも写真や手作りの品物、手紙が届きました。
母もその一人でした。
この手紙で、兵士の気持ちはとても癒されていたと思います。

このハガキは中国大陸から日本に送る為に作られました。
因みに印刷会社は凸版印刷です。

まだ手許にある戦中の中国の写真を出してみたくなりました。
すべて当時の兵士が写したものです。

上海の競馬場です。
今、どうなっているのでしょうか?


北京の故宮です。
「清朝末期の皇居、北京の名勝の一つ」と裏書されてます。



「北満」と裏にスタンプで押してあります。
満州は当時日本が占領していたためか、日本的な情緒のある情景になってます。



これは、中国のどの地方か分かりませんが、行商をする現地の人でしょう。


今までの写真は父のものではありませんが、これが中国南部で兵役に就いた当時の父です。
かなりのんびりした感じです。

以上の写真の全ては昭和18年頃に撮られたものだそうです。

戦中派の生き残りの大人の話を聞くと、昭和18年頃までは兵士は現地の人とも親しむ時を持ち、実際の戦闘も比較的小規模だったそうです。
勿論、各地で大変な戦争の悲劇は起きていたのでしょうが。

さて、父の若い頃の写真をお見せしたら、母が「私も出してよ」と言ってるようです。
ついでに、二人の間に生まれた私も出させていただきます。

上の写真は昭和18年の健康そのものの母の写真です。
名古屋の第三高女(現旭丘)の五年生でした。

そして、次は私が5歳位の時、母は大垣市役所に勤めていました。
役所のお仲間と写したものです。
母は向かって右端にいます。
中央の私の傍にいる方は在日の女性です。
優しい方でずいぶん可愛がっていただきました。
戦後間もない頃です。
お隣の国同士仲良くしようと教わった気がします。
再び、あの頃の仲の良さに戻って欲しいです。





読んでいただき心から感謝いたします。

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