甘やかな思いに満たされていた真由姫の脳裏にふと疑念が過ぎった。
彼を知るまで、暇さえあれば史書に読み耽っていた彼女の率直な感想である。
「勝つか負けるか未だ分からぬ戦いの結果が予測出来るだろうか。たとえ織田の後ろ盾があろうと古くからこの地を治める不破家が容易く落ちるとは思えない」
しかし、文之介の言葉通りになる日は殊の外早く来た。堀家の不破城攻めは非常に素早かった。山に守られた広い城内の意匠をつく場所が落とされるのは、ひょっとして間諜が城内の細微にわたって教えた為ではないか?
城内は戦々恐々としていた。一応兵糧は蓄えてあるが、籠城自体が効かない恐れがあった。何故ならば城内の中でも異変が次々と起きたからである。
城内の女子供はすべて着衣を改め髪を束ね腰刀を差して硬い顔で固まっていた。
真由姫も粗末な服装に身を包み灯の消された大広間の片隅に立ちすくんでいた。
そっと近づいた庭師姿の文之助は要件を伝える形で
「姫様、今でございます」と囁く。
「おう」
二人は素早く広間の床の間に踏み入る。床の間にかかる掛け軸の陰の木の杭をとると扉が開いて、暗がりの中秘密の抜け道に至る狭い階段が見えた。
文之介が用意した蝋燭の灯を頼りに二人は無言で穴ぐらのような抜け道を急いだ。
身体が触れ合うような近くに文之介がいる。姫は生まれて初めてかぐ若い男の匂いにむせった。
今はその匂いに酔うどころではない。
急がねば、裏切り者として殺される身である。二人はただただ歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか。
前方に微かな光が見えた。
「文之介!」
「ここは城外の古井戸の中でございます。ほれ、あそこに上に登る縄梯子がございます」
二人はそれぞれの安堵のため息を漏らした。
「姫様、お疲れではございませんか?」
「?」
「ここで道中が終わりではございません。近江に着くには険しい山越えをせねばなりません。ここに南蛮渡来の妙薬がございます。肝を強くする薬です。是非お飲み下さいませ」
姫はしばらく考えていた。
「重ね重ねかたじけない。そなたの恩は一生忘れませぬ。ただそれほどの妙薬、これからの頼りとする為にも先ずそなたから、、如何」
「重ね重ねかたじけない。そなたの恩は一生忘れませぬ。ただそれほどの妙薬、これからの頼りとする為にも先ずそなたから、、如何」
「私めは端下者でございます。姫さまのお命が先ず大事。薬が僅かしかございませんので、姫さまがお先に」
その瞬間、頬を染めた姫は突然文之介の胸に飛び入った。
「ありがとうよ」そして文之介の胸深く頬を埋めたのである。思わず文之介が姫の肩を抱いた。
そして、、低い呻き声を立ててその場に崩れた。
隙を見て真由が懐から出した合い口は文之介の心の臓深く刺し抜いたのである。
地上からの一条の光が、たらたらと鮮血が流れる彼の胸を指していた。
真由姫はかがみ込んで、さらに止めを差した。
晴れ渡る空の下、初夏の河面はキラキラと輝いていた。
河岸を村人姿がすっかり馴染んだ真由(名を改めて糸)が歩いている。
あれから年月が過ぎて、今は織田の世。
糸はこの近辺の村の郷士の嫁になっている。もともと彼女の生まれたはこの辺りである。姿形がよく似ているところから、真由姫の替え玉を命じられた時、彼女は城に召し出された婢女に過ぎなかった。
婢女と言っても学問好きな親に育てられて行儀作法はきちんと身につけている。
真由姫を溺愛する堀家が苦肉の策で彼女を身代わりにしたのだった。
ところが、皮肉な事に本物の真由姫も夭逝してしまった。糸自身は自分がいかに邪魔な存在かよく承知している。
上つ方の世界の権謀術作がどれほど巧妙であるかということも。
あの妙薬は実は劇薬である。これを飲ませて姫の命を奪って、文之介と名乗る間諜は密かに逃亡する手筈になっていた。
卑しい間諜の言葉に誑かされて命を落として、金を奪われた哀れな姫の役となりたくなかった。
不破城内が実は間諜で固められ、当然城抜けが容易に出来た事、文之介の言葉が嘘だった事、それに気づいた時糸は怒りに震えた。
そして、、、。
麗かな陽を受けながら、糸は必死に修羅道を歩いた昔の思い出がじわじわ蘇ってきたのに顔をしかめた。
見知った多くの人が戦いの為に惨たらしく殺され、己のこの手も命を、初めて恋した男の命を奪ってしまった。
「ただ、、、初めは何も知らなんだ。手酷く騙したのは向こうからだった。殺さねば殺されるから」と糸は低く呟いた。
糸の小さな呟きはサラサラ流れる川の音に消されて、全ては辺りの長閑な風景に溶けていった。
❣️全く別件ですが、たった今、WBC日本14年ぶり優勝致しました。カッコ良かったね^_^