彼らは巧妙にネットを使って拓に関する怪しげな噂を広めた。
「あの男は大人しい羊の皮を被ったサイコパスだ。退治せねばならない」
ネットで広がった情報は、仕事も金もない若者の間で面白半分の興味を呼んだ。
拓が有名大学を出て警視庁勤めしてるのが、かえって悪意のターゲットとなった。
「ちょっとばかり頭が良いと思って威張りやがって」
悪い噂を広めればちょっとした小遣いが貰えるそうだ、彼らの間で拓の偽情報が膨らんで言った。
今の世の中はネットに精通していながら世渡り下手の為仕事に恵まれない若者が多い。根拠のない反感が広がるのはあっと言う間だった。先ず職場で拓の個人用パソコンに故障が起きた。
拓は持ち前の勘で目前の危険を察知した。
しかし、彼は言わば職場の1匹狼である。
仕事柄部下も持たず、彼の人柄を知るのは数少ない同僚しか居ない。
さらに複雑な事情で奈美だけでなく拓も係累に恵まれない。つまり密かに彼が命を絶たれても他に漏れにくい状況にあるのだ。
ヘタに機密が漏れてるようだなどと打ち明けると自分の立場が悪くなる。
悶々とする拓に救いの手を差し伸べたのは、出入りする官庁で地位の高い人物だった。彼は拓と同じ大学を卒業している。年はかなり上だが拓の心を打ち明けられる数少ない呑み友達の一人でもある。
外務省と深い繋がりのある先輩の援助によって蒸発を装った拓の逃亡劇が始まったのである。
「隠れてる間お前の事だけが心配だった」
拓が初めて笑顔を見せた。
「隠れてる間お前の事だけが心配だった」
「あまり変な事件が続発して私の神経が壊れてしまわないか?と心配してたのね?」
拓は眉を寄せて頷く。
そしてさらに声を潜めた。
(実は、かなり以前に詐欺グループ以外の外国人を警察に留置した事があるんだ。その時証拠が明らかなので(つまり犯罪に使用した携帯の所持者で事件現場にいたので)俺の出番は無かった。被疑者は厳しい尋問が続いても口を割らない。その内口から泡を吹いて倒れた。
そこで一旦病院に預けて回復後尋問する事になった。しかしその晩彼は死んだそうだ。
そして彼がその後真犯人に嵌められた男で全くのシロだった事が判明した。更に彼が同じ外国人の仲間内で非常に慕われていた事も分かったんだよ。)
「という事は?」
「誤認逮捕。しかも警視庁幹部が絡んでいる。だから、、」
拓は奈美の顔をじっと見つめた。
「それは、、、?」
「そうだ。この外人の死の原因を自分の能力を過信してる一心理判定員のミスにすれば真実の理由は分からない。そしてその判定員が左遷され、よからぬ噂で神経を病んだ末死んだ事にすれば」
奈美は悲鳴を上げそうになった。
必死に押さえて
「あなたが組織の中からも外からも秘密裡に葬られようとしていたって事?」と呟く。
無言で拓は頷いた。
「それでどうしよう?これから私たち」
奈美の声も顔もひりついていた。
「俺はテレパスじゃない。単に心理学的な知識が人よりあってカンの働く男に過ぎないって事はお前が一番知ってるよな。だからこれから生きる道などひとりでに閃く訳もない」
「そうよ、私たち孤児だから。周りは他人の大人ばっかだったから。警戒心が強くてそれで勘が働くようになったのよね。
言わば野良猫が家猫より勘が働く理屈で」
「その通り」
「だけど周りには孤児という事を隠さないと白い目で見られる」
奈美には珍しく乾いた口調になった。
拓は奈美の細い肩を抱きしめた。
「一言も口の聞けない、誰とも本当の事が話せない日々が続いてた時やっと気づいた。
俺にはお前しか無いって事さ。自分の才覚なんて何の役にも立たない。自分が生きていくのに必要なのはお前とお前と一緒に暮らす生活だけだと」
「なにそれ?」
キョトンとして奈美は聞いた。
拓が初めて笑顔を見せた。
「ご時世を利用して非常に申し訳ないが、今は人と話さなくても、顔を隠していても不自然じゃない世の中だ。だから」
「だから?」
「だから過去を消して生まれ変わるんだよ」
「、、、」
「奈美、自分の出自は実はわからない、と言っていたね。つまり交番の前で捨てられていたと。親切な老夫婦が養育してくれたと」
「そうなの(その秘密はあなただけ知っている)」
奈美は俯く。
「奇跡が起きたんだよ。おまえの本当の兄さんが俺を助けてくれた官庁の上司なんだ」
「嘘!?」
「俺も初めて聞いた時は嘘だと思った。第一兄さんにしては年が違い過ぎる。
だけど嘘みたいな本当の事だ。
つまりね、その人とお前のお母さんは異なるということなんだ。
そして今の彼にとってお前は一番近い肉親という事になる。
彼はその事実をずっと以前から知って僕に近づいたのだ」
閑話休題(筆者自身話が出来過ぎと思いますが我慢してね^_^)
それで、今回その人が俺たちが生まれ変わる準備を整えてくれたんだ。
電話番号は勿論、職業も住所も苗字も違う夫婦が出来る事になる」
話の展開があまりに奇想天外に思えて、奈美はただぽかんとしていた。
言葉を発する気にもならない。
傷ましそうに見ていた拓は奈美を抱きしめた。
「奈美、辛かったよね。酷い目に遭ってきたね」
(辛かった。辛かった。とっても。あなただけ、あなただけは分かってくれる。それだけ頼りに待ってたんだわ)
奈美は武の胸に顔を擦りつけて声を上げて泣きじゃくっていた。
半年後、帽子を被ったメガネとマスク姿の夫婦が仲良く肩を並べて、リムジンバスに乗っていた。
「飛行機の出発、少し遅れるかも知れないって」
奈美が嬉しそうに囁く。
「その前に、お茶しない」
「おまえ物見遊山に行くんじゃないんだよ。浮かれるな」
武は奈美の肩を軽く叩く。
二人の姓は佐藤と変わった。奈美の実兄の計らいで跡継ぎのいない家の夫婦養子になったのである。
武の勤務先も勤務内容も異なる。
彼は某研究所勤務になって、妻と共に任地に赴く事になったのである。
二人の行先は限られた人以外誰も知らない。
桜咲く季節、バスは一路空港に向かっている。