昨日、テレビを見て
ジャンプが生まれた日の事を思い出し。
mixiにつづった日記を見てみました。
2006.5.21の日記。
~~~~~~
昨日のテレビで
心臓病で手術を繰り返している子の話があった。
バスケの練習から帰ってきた長男の
遅い夕食準備をしながら見ていたので、
チラッと見ただけなのだが。
それを見ながら、三男が生まれた時の事を思い出した。
三男が生まれたのは七夕の夕方。
その後、バタバタと他に二人赤ちゃんが生まれた。
生んだのは県立病院。
赤ちゃんを産んだ後、病室に移るのだが
病室が空いていなくて、
私と、他の二人の母達は陣痛室に作られた
簡易病室に移った。
狭い陣痛室にカーテンだけで仕切られた病室もどき。
私は右端だった。
翌日、真ん中のベットの母の元に
助産婦さんと、医師がやって来て何やら話をしていた。
何を話していたのかはよくわからないが
そして、次は左端の母の元にも
助産婦と医師がやって来て、話をしていた。
双方の母の泣き声が聞こえてきた。
病室が空き、簡易病室を後にした。
私は真ん中のベットの母と同じ病室になった。
簡易病室で一緒だったこともあり、
食堂で食べる三食を共にした。
ありきたりの世間話をして食事の時間は過ぎていった。
母子別室。授乳の時は新生児室に行く。
その母は、みんなが授乳に行く時に
一人病室で母乳を搾っていた。
その母の子は新生児室にはいない。
NICUに入っているのだと思っていた。
私が退院する前日の夕食時。
その母は涙を流しながら私に話をした。
「うちの子、心臓病をもって生まれてきたんだ。
手術しなきゃ助からないんだよね。」
話を聞きながら、涙が自然とこぼれてきた。
彼女との境遇は違うけれど、
私も次男の障害がわかったときに
毎日毎日泣いていたから。
母になったばかりなのに、
一刻を争う命の子に向き合っていたその母。
私は彼女に言った。
「パパとママに会いたかったから、
病気を抱えていても、生まれてきたんだと思うよ。
私にも障害を抱えて生まれてきた子がいるけれど
生きたい!って思って私を母に選んで来たと思っている。
子供の生命力、信じよう」
そんなことしか言えなかった。
私が退院する午前中。
彼女は新聞の一面を私に見せてくれた。
「直樹って名前をつけて、今日新聞に載ったんだ。」
手術をするのに、名前を付けなければ
役所に医療費控除等の申請を受けられないとのことで
生まれた翌日にすぐ名前をつけ、出生届を出したとのこと。
私に新聞を見せてくれた母の顔は、とても嬉しそうだった。
私が退院する際、彼女は笑顔で見送ってくれた。
自宅電話、メールアドレスを交換し、
親子での再会を誓った。
忘れもしない7月23日。
彼女からのメールがパソコンに届いていた。
「直樹は7月17日、10時間以上の手術を受けましたが
力尽きて、手術後に息を引き取りました。
10日の命でした。
葬儀が終わり、まだ気持ちの整理が出来ていませんが
少しずつ前を向いて歩いていけるようになりたいです」
そんな内容だった。
メールを読んで、ワンワン泣いた。
同じ日に生まれた我が子は元気にすくすく育っている。
私はこの子に直樹君の分も生きて欲しいと思った。
簡易病室で左端だった母。
11月に次男三男が二人入院した際に
彼女と小児科入院病棟の廊下で会って挨拶をした。
翌年2月。次男とリハビリ訓練施設に行った際、
酸素ボンベを持ち、子供と一緒に訓練に来ている母に会った。
私は長男を産み、その次の子を流産している。
その次に妊娠し、産声を上げた子は
耳が聞こえず、発達遅滞の子供だった。
「男の子がいい、女の子がいい」
そういう願いは親のエゴだと思う。
この世に生まれてきてくれることに
感謝しなくちゃいけない。
昨日のテレビを見て、
あの頃の出来事を思い出した。
ジャンプが生まれた日の事を思い出し。
mixiにつづった日記を見てみました。
2006.5.21の日記。
~~~~~~
昨日のテレビで
心臓病で手術を繰り返している子の話があった。
バスケの練習から帰ってきた長男の
遅い夕食準備をしながら見ていたので、
チラッと見ただけなのだが。
それを見ながら、三男が生まれた時の事を思い出した。
三男が生まれたのは七夕の夕方。
その後、バタバタと他に二人赤ちゃんが生まれた。
生んだのは県立病院。
赤ちゃんを産んだ後、病室に移るのだが
病室が空いていなくて、
私と、他の二人の母達は陣痛室に作られた
簡易病室に移った。
狭い陣痛室にカーテンだけで仕切られた病室もどき。
私は右端だった。
翌日、真ん中のベットの母の元に
助産婦さんと、医師がやって来て何やら話をしていた。
何を話していたのかはよくわからないが
そして、次は左端の母の元にも
助産婦と医師がやって来て、話をしていた。
双方の母の泣き声が聞こえてきた。
病室が空き、簡易病室を後にした。
私は真ん中のベットの母と同じ病室になった。
簡易病室で一緒だったこともあり、
食堂で食べる三食を共にした。
ありきたりの世間話をして食事の時間は過ぎていった。
母子別室。授乳の時は新生児室に行く。
その母は、みんなが授乳に行く時に
一人病室で母乳を搾っていた。
その母の子は新生児室にはいない。
NICUに入っているのだと思っていた。
私が退院する前日の夕食時。
その母は涙を流しながら私に話をした。
「うちの子、心臓病をもって生まれてきたんだ。
手術しなきゃ助からないんだよね。」
話を聞きながら、涙が自然とこぼれてきた。
彼女との境遇は違うけれど、
私も次男の障害がわかったときに
毎日毎日泣いていたから。
母になったばかりなのに、
一刻を争う命の子に向き合っていたその母。
私は彼女に言った。
「パパとママに会いたかったから、
病気を抱えていても、生まれてきたんだと思うよ。
私にも障害を抱えて生まれてきた子がいるけれど
生きたい!って思って私を母に選んで来たと思っている。
子供の生命力、信じよう」
そんなことしか言えなかった。
私が退院する午前中。
彼女は新聞の一面を私に見せてくれた。
「直樹って名前をつけて、今日新聞に載ったんだ。」
手術をするのに、名前を付けなければ
役所に医療費控除等の申請を受けられないとのことで
生まれた翌日にすぐ名前をつけ、出生届を出したとのこと。
私に新聞を見せてくれた母の顔は、とても嬉しそうだった。
私が退院する際、彼女は笑顔で見送ってくれた。
自宅電話、メールアドレスを交換し、
親子での再会を誓った。
忘れもしない7月23日。
彼女からのメールがパソコンに届いていた。
「直樹は7月17日、10時間以上の手術を受けましたが
力尽きて、手術後に息を引き取りました。
10日の命でした。
葬儀が終わり、まだ気持ちの整理が出来ていませんが
少しずつ前を向いて歩いていけるようになりたいです」
そんな内容だった。
メールを読んで、ワンワン泣いた。
同じ日に生まれた我が子は元気にすくすく育っている。
私はこの子に直樹君の分も生きて欲しいと思った。
簡易病室で左端だった母。
11月に次男三男が二人入院した際に
彼女と小児科入院病棟の廊下で会って挨拶をした。
翌年2月。次男とリハビリ訓練施設に行った際、
酸素ボンベを持ち、子供と一緒に訓練に来ている母に会った。
私は長男を産み、その次の子を流産している。
その次に妊娠し、産声を上げた子は
耳が聞こえず、発達遅滞の子供だった。
「男の子がいい、女の子がいい」
そういう願いは親のエゴだと思う。
この世に生まれてきてくれることに
感謝しなくちゃいけない。
昨日のテレビを見て、
あの頃の出来事を思い出した。