ここのところ、割合短い間にNHKの秀行先先を取材した番組・タイトルははっきり憶えていませんが「・・・無頼派・・・」を何回か見ました。
本放送、再放送、再々放送と有りました。
それに「1チャンネル」とBSでもやっていましたしね。
その中で秀行塾の模様が取材されていた
若手に打ち碁を並べさせて、指導する秀行先生
その横で見ている武宮九段、少し離れて結城九段・・・高尾先生でさえ遠くから・しかし熱心に見ている。
若い棋士にが大勢取り巻いている
この先生との距離は囲碁界でのポジションみたいなものを表しているのだろうか?・・・高尾さんも少し遠いところで見ていたような
尤も彼は直弟子だから遠慮があるのかな?とか内容と関係無いことを考えたりしながら見ていました。
その時に若手に指摘した手を、番組の中で(秀行塾とは別の場所で)武宮九段が解説してくれました。
囲碁ファンだけでなく、全く碁を知らない人も見ているであろう番組ですから視聴者が皆分かったとは思えませんが、囲碁を知らない人にもニュアンスが伝わるように話してくれたと思います・・・もしかしてこういうシーンをきっかけに興味を持つ人が出れば好いなと思いました。
碁の「着手」についての指摘の内容を、分かり易く・手そのものと状況を説明したものです。
「あの手は普通なら良くない手とされていますからプロは考えない手です。秀行先生は”ここに打つとどうなる?”と言っています。少なくともその手も考えて見ろと言っているのです。」
「あの変化では途中まで打った石の流れが変わっています。あれでは石に愛情が無さ過ぎると先生は言っているのです」のような話だったと思う・・・
成る程、プロにはプロならではの盲点見たいなものがあることは感じられました。
話が飛びますが、詰め碁の問題で「素人が簡単に解ける詰め碁を、プロがウンウン唸って3日もかかってやっと解けた」という話を思い出しました。
素人には見えるけれど、プロには盲点というのもあるのですね。
そういえば真面目な囲碁格言をパロディのようにしたり、面白格言があった・・・それに私の経験的なアホ格言を加えると。
例えば「ケイマの突き出しこの一手」だって成立する場面もある?
アマでも無頓着な人はケイマに突き出すことは日常茶飯事ですが、逆に筋に明るい人・美学的に拘る人は決してそれは打たない。
こういうことは観戦していると感じます・・・
「ケイマの突き出し悪手の見本」という格言があり、確率的に正しい%が高いと思うのですが
しかしどちらが正しいとは言えないとも私は思うのです・・・少しずるいですがその局面による。
だから全てが正しくて全て悪いという100%ではなくて、確率的には悪いことが多いということだろうと思うので、無自覚的に打っている人への警句として発せられていると考える。
だから逆の側から見て、全て間違いだから決してその手は打たないという人は一見筋が良い人ですが、100%いつも正しいとは言えないわけで、その意味では無自覚的な人より確率的に正しいだけで50歩100歩みたいなもののような気もします。
ケイマの突き出しを打たない人は、平気で打つ人と一緒にされたら不愉快かも知れませんが・・・
似たような格言で
「上手まっすぐ ヘボこすみ」とか「下手の両つけ」とかありますなどの”べからず集”が有ります。
”こういう手を打っていると勝てませんよ”とか”上達しませんよ”という警句ではあるのですが、いつでも正しい警告かどうかが問題でしょう。
肝心な場面で「警告」を思い出し”筋の良い手”を打ったら、その場面に限っては”例外”だったということは有りませんか?
こういう警告は碁の上達とか筋を身につけるうえで便利です・・・が、掛け算九九のように暗記して憶えたモノがそのまま常にその通りでもないでしょう。
だから「格言」としてとりあえず覚えて、ケースバイケースもあることを理解して応用するというのが良い様に思います。
そういう形で上達する?
悪手の見本と言われる形でも、「この局面この一手」もあると言うことでしょう
だからそんな場面で自分の考えたことを信じて「悪手の見本」を打てるかどうか?
それは一見筋が良くても、「自覚しないで打つ」「筋が良いと言われているから打つ」に比べればずっと良いのではないだろうか。
その逆みたいな場面もあります・・・と思っています
「一間跳びに悪手なし」と言いながら打つ人が居ます。(言っても言わなくても良いのですが)
偶々でしょうが、私の向う2子・3子局では多いです
そこで私もヘラズ口では負けていませんから「・・・時による」と混ぜっ返します。
これは単に言葉での遊びでもあり、相手も見ている人もそのように受け取っているのでしょうが、私としては案外本心でもあるのです。
私は「1間跳びは時として切れるから、切られた時の対策を考えて置くのも大事ですよ」と言っているつもりなんだけど・・・
マア一般的に言えば備えあれば憂いなしというところ
「相手が1間跳びで安心しているところに、つけこむ隙があるかも知れない」
群れで水場に来たシマウマを物陰から狙うライオン(本当はハイエナかも)
桶狭間で休憩中の今川義元・・・
ということで「ケイマの突き出し、この一手」もあると考えるのです。
確率的には低くても、あるときはある。
実感として、こういう「常識外の手?」が無い・少ない人は怖くない。
これは一種のパラドックスではあるけれど・・・
例えば本当に強い人は私程度が相手なら何もしなくても勝てるでしょうから、この話の基準外ですし、そのレベルの常識と言うものが尺度が違うかも知れないので、常識云々も意味が無いかもしれません。
ですから日頃私と打つくらいの「ドングリクラブ」と言う範囲での話しです。
確かに筋の良い人は「非常識な手?」は打ちません。
それで悪いわけではないのですが「一発の怖さ」も無いとも
上手い手・良い手は打つけれど「怖くは無い」
所謂常識的な手なら予測できるわけで・・・勿論こちらがアホやれば負けるのですが、予測範囲の読みの中での戦いです。
いずれにせよ矛盾することはある
「形は悪いのに妙に勝負強い」とか「筋はいいのに勝負に強い」とか
私にしても一度くらいは「姿形もいいし碁も強い」と言われてみたい・・・永遠の夢でしょうが
本放送、再放送、再々放送と有りました。
それに「1チャンネル」とBSでもやっていましたしね。
その中で秀行塾の模様が取材されていた
若手に打ち碁を並べさせて、指導する秀行先生
その横で見ている武宮九段、少し離れて結城九段・・・高尾先生でさえ遠くから・しかし熱心に見ている。
若い棋士にが大勢取り巻いている
この先生との距離は囲碁界でのポジションみたいなものを表しているのだろうか?・・・高尾さんも少し遠いところで見ていたような
尤も彼は直弟子だから遠慮があるのかな?とか内容と関係無いことを考えたりしながら見ていました。
その時に若手に指摘した手を、番組の中で(秀行塾とは別の場所で)武宮九段が解説してくれました。
囲碁ファンだけでなく、全く碁を知らない人も見ているであろう番組ですから視聴者が皆分かったとは思えませんが、囲碁を知らない人にもニュアンスが伝わるように話してくれたと思います・・・もしかしてこういうシーンをきっかけに興味を持つ人が出れば好いなと思いました。
碁の「着手」についての指摘の内容を、分かり易く・手そのものと状況を説明したものです。
「あの手は普通なら良くない手とされていますからプロは考えない手です。秀行先生は”ここに打つとどうなる?”と言っています。少なくともその手も考えて見ろと言っているのです。」
「あの変化では途中まで打った石の流れが変わっています。あれでは石に愛情が無さ過ぎると先生は言っているのです」のような話だったと思う・・・
成る程、プロにはプロならではの盲点見たいなものがあることは感じられました。
話が飛びますが、詰め碁の問題で「素人が簡単に解ける詰め碁を、プロがウンウン唸って3日もかかってやっと解けた」という話を思い出しました。
素人には見えるけれど、プロには盲点というのもあるのですね。
そういえば真面目な囲碁格言をパロディのようにしたり、面白格言があった・・・それに私の経験的なアホ格言を加えると。
例えば「ケイマの突き出しこの一手」だって成立する場面もある?
アマでも無頓着な人はケイマに突き出すことは日常茶飯事ですが、逆に筋に明るい人・美学的に拘る人は決してそれは打たない。
こういうことは観戦していると感じます・・・
「ケイマの突き出し悪手の見本」という格言があり、確率的に正しい%が高いと思うのですが
しかしどちらが正しいとは言えないとも私は思うのです・・・少しずるいですがその局面による。
だから全てが正しくて全て悪いという100%ではなくて、確率的には悪いことが多いということだろうと思うので、無自覚的に打っている人への警句として発せられていると考える。
だから逆の側から見て、全て間違いだから決してその手は打たないという人は一見筋が良い人ですが、100%いつも正しいとは言えないわけで、その意味では無自覚的な人より確率的に正しいだけで50歩100歩みたいなもののような気もします。
ケイマの突き出しを打たない人は、平気で打つ人と一緒にされたら不愉快かも知れませんが・・・
似たような格言で
「上手まっすぐ ヘボこすみ」とか「下手の両つけ」とかありますなどの”べからず集”が有ります。
”こういう手を打っていると勝てませんよ”とか”上達しませんよ”という警句ではあるのですが、いつでも正しい警告かどうかが問題でしょう。
肝心な場面で「警告」を思い出し”筋の良い手”を打ったら、その場面に限っては”例外”だったということは有りませんか?
こういう警告は碁の上達とか筋を身につけるうえで便利です・・・が、掛け算九九のように暗記して憶えたモノがそのまま常にその通りでもないでしょう。
だから「格言」としてとりあえず覚えて、ケースバイケースもあることを理解して応用するというのが良い様に思います。
そういう形で上達する?
悪手の見本と言われる形でも、「この局面この一手」もあると言うことでしょう
だからそんな場面で自分の考えたことを信じて「悪手の見本」を打てるかどうか?
それは一見筋が良くても、「自覚しないで打つ」「筋が良いと言われているから打つ」に比べればずっと良いのではないだろうか。
その逆みたいな場面もあります・・・と思っています
「一間跳びに悪手なし」と言いながら打つ人が居ます。(言っても言わなくても良いのですが)
偶々でしょうが、私の向う2子・3子局では多いです
そこで私もヘラズ口では負けていませんから「・・・時による」と混ぜっ返します。
これは単に言葉での遊びでもあり、相手も見ている人もそのように受け取っているのでしょうが、私としては案外本心でもあるのです。
私は「1間跳びは時として切れるから、切られた時の対策を考えて置くのも大事ですよ」と言っているつもりなんだけど・・・
マア一般的に言えば備えあれば憂いなしというところ
「相手が1間跳びで安心しているところに、つけこむ隙があるかも知れない」
群れで水場に来たシマウマを物陰から狙うライオン(本当はハイエナかも)
桶狭間で休憩中の今川義元・・・
ということで「ケイマの突き出し、この一手」もあると考えるのです。
確率的には低くても、あるときはある。
実感として、こういう「常識外の手?」が無い・少ない人は怖くない。
これは一種のパラドックスではあるけれど・・・
例えば本当に強い人は私程度が相手なら何もしなくても勝てるでしょうから、この話の基準外ですし、そのレベルの常識と言うものが尺度が違うかも知れないので、常識云々も意味が無いかもしれません。
ですから日頃私と打つくらいの「ドングリクラブ」と言う範囲での話しです。
確かに筋の良い人は「非常識な手?」は打ちません。
それで悪いわけではないのですが「一発の怖さ」も無いとも
上手い手・良い手は打つけれど「怖くは無い」
所謂常識的な手なら予測できるわけで・・・勿論こちらがアホやれば負けるのですが、予測範囲の読みの中での戦いです。
いずれにせよ矛盾することはある
「形は悪いのに妙に勝負強い」とか「筋はいいのに勝負に強い」とか
私にしても一度くらいは「姿形もいいし碁も強い」と言われてみたい・・・永遠の夢でしょうが