今日、服部因徹と安井仙知の碁を入力していて、気になったことがあったので少し調べてみました。
囲碁・棋譜入力も楽しみなら、こうして調べて分かったこと=「トリビア的ヘエ」も楽しみだし、調べること自体も楽しいですね。
先に因徹について紹介しておきます(私はこの時代の人の名前が似たような字が多いので複雑に感じていますので・・・)
服部因徹は美濃の国の生まれで江戸に出て七世井上春達因碩に入門、井上家の番頭役として活躍、35才で6段になった。
仙知より3才年上だそうですから、この対局の時仙知21才だそうだから因徹は24才・・・さてこの時代の、この年代の棋士の対局は若手対決なんだろうか?
因徹26才で5段とあるから、その2年前なので4段でしょうか
その因徹の先の碁
対局日が天明4年8月24日とある・・・天明です
天明といえば浅間山が爆発して、火山灰の影響で世界的に異常気象になったと記憶している。
江戸時代に四大飢饉というのがあるらしいが、天明の飢饉は天明2年から8年まで続いたといいますから、これは飢饉の時代です。
世の中飢饉でも碁は打っていたということですね・・・
現代で、先年の米不足の年、備蓄米はあり、情報もあり各方面の輸入などの手当てもあったのでパニックにならず、「米が無ければパンでも麺でもいいさ」と嘯いていられましたが、、、
江戸時代の飢饉で江戸と言う都市での碁打ちの世界では影響が少なかったのでしょうか
棋譜集の仙知の棋譜の日付を見ると半分は天明年間となっているから、仙知が活躍した時代は飢饉などいろいろあった時代だったのですね
天明7年には関西・関東で米騒動があったのですから・・・さてその時代の碁打ちにも影響があったでしょう
対局した場所が「於 辻川」とあります
私はこの名前が分からないのでネット検索したところでてくるのは地命と人名ばかりのようです・・・人名は現代の方の名前ばかりなのでこれは対局場所と関係なさそうです
私としては「辻川」という名前の感じで、何処か高級料亭のイメージを抱きましたが、どうもその方面でヒットしません。
地名では兵庫県神崎郡福崎町辻川区・・・鈴の森神社・鬼太鼓・・・まあ対局はここでは無いでしょうね
京都にそういう名前のレストランがあるようですが、まさかここが江戸時代にの料亭では無さそうですし、今みたいに新幹線で行って食事をしながら碁を打ってということはあり無いし・・・
他にも岐阜県にも辻川はあるらしいけれど、どうもこの飢饉の時代に江戸を離れて碁を打ちに行くとは考えにくい
僅かに因徹の出身地=美濃と重なるけれど・・・
ともかく江戸周辺では分かりませんでした
それとも人名で・・・辻川という大名は聞いたことが無いし
あるいは旗本の名前?
それですと記録として「於 辻川」ではなくて「於 辻川邸」となるはずですよね、、、この時代の記述としては、こういう書き方は厳密なところがありそうですし。
やはり料亭かなそれとも江戸に辻川という場所があるのかな?、、、それにしては時代小説などの場所・背景の設定で名前につかわれそうですが記憶が曖昧です
因徹と仙知は何局か打っていますが、この碁は天明4年ですが、この年九州の志賀島であの有名な金印が発見された年・・・囲碁とは関係ないですが
ついでといってはなんですが、先程の兵庫県の辻川ですが民俗学の柳田國男が生まれたところだそうで・・・いずれも私としては「ヘエ」
脱線ついでに話しますと
私はこういうこと、、、本線の興味から調べたこと、、、その枝葉的な知識とかそういうカケラ的知識をいっぱい抱え込むのが好きです。
今すぐ何かの役に立つというものではなくても、そもそも何かの役に立つかどうか怪しいものでもともかく記憶と言う貯蔵庫に入れて置く性格?です。
まあ、役に立たない知識はありますが、役に立つものは少ないわけで
たまに女房殿や娘などに「父さんは何でそんなことまで知っているの!?」なんてことがあると、内心密かに鼻高々だったり。
それが調べ物が好きな理由ですね、「いつかきっと自慢できる日が来るかも知れない」みたいに
ところで、天明の飢饉の引き金になった浅間山の爆発
これには学生時代の思い出があります。
浅間山の爆発で火山灰が川のように流れて麓の蒲原の集落が飲み込まれた・・・学生時代にその地質の地学実習がそこであった
夏休み現地で地質を見たり、石の採集とか地質図の作成とか・・・半分は牧場で遊んだり温泉に入り、鬼押し出しなどの浅間山観光みたいなものでしたが
ともあれ天明=飢饉=浅間山爆発と言うように繋がっていきます。
天明年間の出来事をざっと見ると
天明元年(安永10年、1781)桜島爆発、田沼意次老中の時代
天明2年春、各地で大洪水、7月関東で大地震
天明3年7月7日 浅間山噴火 この年大飢饉
天明4年 金印発見
天明7年 関西・関東で米騒動 とある
天明・大災害・金印・田沼というような発想の連結もありそうですね
いずれにせよそんな時代、棋士・碁打ちの家にも影響はあったでしょうが懸命に碁を打っているのですね。
囲碁・棋譜入力も楽しみなら、こうして調べて分かったこと=「トリビア的ヘエ」も楽しみだし、調べること自体も楽しいですね。
先に因徹について紹介しておきます(私はこの時代の人の名前が似たような字が多いので複雑に感じていますので・・・)
服部因徹は美濃の国の生まれで江戸に出て七世井上春達因碩に入門、井上家の番頭役として活躍、35才で6段になった。
仙知より3才年上だそうですから、この対局の時仙知21才だそうだから因徹は24才・・・さてこの時代の、この年代の棋士の対局は若手対決なんだろうか?
因徹26才で5段とあるから、その2年前なので4段でしょうか
その因徹の先の碁
対局日が天明4年8月24日とある・・・天明です
天明といえば浅間山が爆発して、火山灰の影響で世界的に異常気象になったと記憶している。
江戸時代に四大飢饉というのがあるらしいが、天明の飢饉は天明2年から8年まで続いたといいますから、これは飢饉の時代です。
世の中飢饉でも碁は打っていたということですね・・・
現代で、先年の米不足の年、備蓄米はあり、情報もあり各方面の輸入などの手当てもあったのでパニックにならず、「米が無ければパンでも麺でもいいさ」と嘯いていられましたが、、、
江戸時代の飢饉で江戸と言う都市での碁打ちの世界では影響が少なかったのでしょうか
棋譜集の仙知の棋譜の日付を見ると半分は天明年間となっているから、仙知が活躍した時代は飢饉などいろいろあった時代だったのですね
天明7年には関西・関東で米騒動があったのですから・・・さてその時代の碁打ちにも影響があったでしょう
対局した場所が「於 辻川」とあります
私はこの名前が分からないのでネット検索したところでてくるのは地命と人名ばかりのようです・・・人名は現代の方の名前ばかりなのでこれは対局場所と関係なさそうです
私としては「辻川」という名前の感じで、何処か高級料亭のイメージを抱きましたが、どうもその方面でヒットしません。
地名では兵庫県神崎郡福崎町辻川区・・・鈴の森神社・鬼太鼓・・・まあ対局はここでは無いでしょうね
京都にそういう名前のレストランがあるようですが、まさかここが江戸時代にの料亭では無さそうですし、今みたいに新幹線で行って食事をしながら碁を打ってということはあり無いし・・・
他にも岐阜県にも辻川はあるらしいけれど、どうもこの飢饉の時代に江戸を離れて碁を打ちに行くとは考えにくい
僅かに因徹の出身地=美濃と重なるけれど・・・
ともかく江戸周辺では分かりませんでした
それとも人名で・・・辻川という大名は聞いたことが無いし
あるいは旗本の名前?
それですと記録として「於 辻川」ではなくて「於 辻川邸」となるはずですよね、、、この時代の記述としては、こういう書き方は厳密なところがありそうですし。
やはり料亭かなそれとも江戸に辻川という場所があるのかな?、、、それにしては時代小説などの場所・背景の設定で名前につかわれそうですが記憶が曖昧です
因徹と仙知は何局か打っていますが、この碁は天明4年ですが、この年九州の志賀島であの有名な金印が発見された年・・・囲碁とは関係ないですが
ついでといってはなんですが、先程の兵庫県の辻川ですが民俗学の柳田國男が生まれたところだそうで・・・いずれも私としては「ヘエ」
脱線ついでに話しますと
私はこういうこと、、、本線の興味から調べたこと、、、その枝葉的な知識とかそういうカケラ的知識をいっぱい抱え込むのが好きです。
今すぐ何かの役に立つというものではなくても、そもそも何かの役に立つかどうか怪しいものでもともかく記憶と言う貯蔵庫に入れて置く性格?です。
まあ、役に立たない知識はありますが、役に立つものは少ないわけで
たまに女房殿や娘などに「父さんは何でそんなことまで知っているの!?」なんてことがあると、内心密かに鼻高々だったり。
それが調べ物が好きな理由ですね、「いつかきっと自慢できる日が来るかも知れない」みたいに
ところで、天明の飢饉の引き金になった浅間山の爆発
これには学生時代の思い出があります。
浅間山の爆発で火山灰が川のように流れて麓の蒲原の集落が飲み込まれた・・・学生時代にその地質の地学実習がそこであった
夏休み現地で地質を見たり、石の採集とか地質図の作成とか・・・半分は牧場で遊んだり温泉に入り、鬼押し出しなどの浅間山観光みたいなものでしたが
ともあれ天明=飢饉=浅間山爆発と言うように繋がっていきます。
天明年間の出来事をざっと見ると
天明元年(安永10年、1781)桜島爆発、田沼意次老中の時代
天明2年春、各地で大洪水、7月関東で大地震
天明3年7月7日 浅間山噴火 この年大飢饉
天明4年 金印発見
天明7年 関西・関東で米騒動 とある
天明・大災害・金印・田沼というような発想の連結もありそうですね
いずれにせよそんな時代、棋士・碁打ちの家にも影響はあったでしょうが懸命に碁を打っているのですね。