なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

「先生」について

2007-03-16 00:29:22 | Weblog
 碁会所とかコミュニティで「先生,手が空いていたら1局お願いします」と声をかけられれば、「先生とまで言われては、断るわけにはいかないね(ブタもおだてりゃ木に登る)」と応じるのです。
 日頃偉そうな顔をしていても、尊敬されるほど強くは無いのですから、この場合の先生は「さん」くらいの意味です。
 「先生」のこういう使い方は、個人的には40年ほど遡っていく
  学生時代に同じクラブの先輩が植物採集・社会見学・観光旅行みたいな台湾旅行をしました。
 1ドル360円の固定相場時代に、リュックを担いで一人で出掛けて行きました。
 それほど裕福な旅行ではないので行く時はバイクを持っていって現地で処分とか、人気のある日本製品を出来るだけもって行くとか・・・今の学生はこういうことをしなくても良い時代ですね。
 ともかく、その先輩は約1ヶ月程で帰ってきましたが、お土産は植物のスライド写真と現地の話です。
 向うでは一家の柱でもある主婦を太々(タイタイ)と言うんだとか・・・
  今で言うとホームステイみたいにどこかの家にお世話になって歩き回っていたらしい。
  向うでは年配者は殆どの人が日本語を理解できたらしいから、外国語をしゃべれるとは思えない先輩でも何とかなったらしい。
 それで彼が帰国してから「先生」が流行って・定着した。
  世の中全体の動きでは無くて、私の周辺ではそうだったという話です
 これは「ミスター」とか「・・・さん」みたいな使い方で、現地では「K先生」と呼ばれていたらしい。
 当時の彼は数学科の学生の身分で、専門の学問とは関係の無い植物採集などでの旅行ですから、軽い尊敬とか丁寧な呼び方だったのでしょう。
 その先輩が帰国して、周りの人に皆「先生」付けで呼ぶ・・・それが流行って、定着してしまったのです。
 もう少し時代が下がると、フィリピンに旅行した日本人が現地では「社長さん」と呼ばれたようなものかもしれない。
 但し本物の社長なら「さん」などいらないはずで、「さん」がつくのは本物ではない証拠なんだが・・・
 尤も他の会社の社長には「さん」をつけたほうが自然の場合があるから難しい
  
 話を「先生」に戻します
さてそれより更に時代が下がって、碁会所に足しげく通っていた頃のことです 
 この頃、碁会所はまさに先生で溢れていました
  まず、”本物”の先生がいます。
 中学の校長先生とか、教師の先生、病院の院長先生のお医者さん。
  この方々は間違いなく「先生」
 政治に携わっている先生=議員さんもいたし、本を書いたり地方紙に連載を書いている著述業の先生もいた。
塾で書道を教える人、お茶の先生もいました。
 更に土地鑑定士の先生、土地家屋調査士、司法書士・・・皆先生です。
  そして初級者・初心者に碁を教えているK畑師範は素人とはいえここでは碁の先生、そういう意味では私も「ナンチャッテ」付ですが先生の内。
 棋力の下の人から見ると、上の人は皆先生ではある・・・
  観戦記者などで有名な方が出入りしていましたが、この方などまさに私などから見たら先生です。
 そしてプロの棋士は当然先生と呼ぶ・・・
  全く石を投げれば先生に当たる。
 だから「○○先生」と呼ばなくてはいけません、そうでないと周りの人が全員振り返ることでしょう 

ある訃報で

2007-03-15 00:09:02 | Weblog
私は母親を数年前に亡くしましたが、最近同じ世代の同僚の母親の不幸が多い・・・そういう年代なんですね。
 信長の時代なら”人生五十年”ですから、既に余りで生きているようなものですからその親は相当な年なのです
  私らは現代では仕事は一応現役世代ですが、昔風に年令だけを見たら既に余生年代なんでしょう
 マア、いてもいなくてもさほどの差は無いでしょうが・・・
  これが昔のNHKの朝ドラで「箸置き」です:つまり”あっても無くても好い”
 ところで私の母親も最後の数年はそうでしたが、同僚たちの母親も皆”認知症”だったとか・・・偶然にはちがいないが。
 認知症は死因では無いでしょうが、昔より長生きになっているので、認知症になる率が高いのでしょうか・・・
 
 碁を打つ人は認知症にならないと聞きましたが、”絶対”ならないとは聞いていませんから、”なりにくい”程度と解釈しています。
 しかし、もし病気にも体質やDNAが関連しているなら、私の場合は母のDNAを継いでいるので、それほど安心もしていられません。
 ”なりにくい”ということの中身が、常に脳を活性化しているのでということなら、私もそれなりにではあるけれど、一応使っているのでなりにくい状態ではないかとは思っています・・・が
 そういう意味では、同じ相手と何局も打つのだけれど、いつも同じような形で、しかも猛烈な早碁だったり・頭が考えているのか指が考えているのか分からない碁ばかり打っているのでも脳は活性化できるのだろうか疑問ではある
 
 さて一度認知症と診断されると、せいぜい現状維持で止めることだと言われていた。
 まだ治療薬も無いのでしょうし
  ところが先日TV放送で、改善の方向に向かうという”奇跡”を見ました。
 認知症が一気に吹っ切れていくみたいな奇跡ではないのですが
  相当重症な人が徐々に改善されていく様子が見れた。
   完全に直ると言うものでは有りませんが、何が違うかと言うと”意欲”の面で変わっていくのです。
 単純なテストを受けて・・・簡単な足し算、漢字の読み方をテストして、出来ると「100点」をもらえるのです。
 出来ると褒められるし、本人も嬉しいから意欲が出てきます・・・それが生活のいろんなところに良い影響が出て来るのです。

 そうだ、私の母が認知症になった時に考えたものです。
  母は、家事など一切を息子の嫁さんに任せることで”解放”されたのだけれど、思考も体を動かすことも少なくなったようです
 これが結果としていけなかったのですね。
  私など子供が小さい頃は、子供には本を読ませるために「日本文学全集」とか「世界文学全集」などなどいろんな本を購入契約して、子供には本を読む習慣を付けさせていました。
 だから、私などが「本を買うのでお金をくれ」と言えば必ずもらえたのです・・・しかし本人は読んでいなかった。
 そこが残念ですね
  本に囲まれていても読まなくてはいけません
 母の認知症を考える時いつもそのことを考えます。

ということは、私は碁を打つと言っても、タダ打つだけでは効果は少ないかも 
 指の運動も脳には効果があるとはいっても、単なる指の運動の碁より、頭の活性化の碁の方が好いに決まっているでしょうね。

何だか纏まりの無い話でしたが、同僚の母親の訃報で考えたことです。

人はさまざまだけど

2007-03-14 03:50:20 | Weblog
 ネットで打っていて、最低限必要なことは相手のことを思いやることです。
 これは、NHKの大人向けのパソコンのゲーム教室での一番初めの注意事項です。
  マア、私が言うと「自分のことをもう少し気遣って欲しい」みたいな哀れな老人のようですが・・・
 私の参加しているネットでの大きな問題に「定型文」のことがあると私は考えます。
  この件についてはもうこれまでに2,3回話しているので我ながらしつこいとも思いますが、一向に改善されない・と言うか”相変わらず”の人がいるのです。

 どんな定型文かというと(前にも話しましたが)
「パソコンの調子が悪いので投了させて戴きました」
「ごめんなさい、急用が出来たので投了させて戴きました」
「回線の調子が悪いので投了させて戴きます」
 この通りではないかも知れませんが、概ねこのような文です
  いくつかある定例文の中で、選んでクリックすれば「挨拶文」として対局相手に送られるわけで、それらは利便性の為に用意されたはずで、前に上げた3つは終局時の挨拶です。
 さて、これらのあいさつ文は本当に必要なのかどうか?
   使われ方が悪いと人を傷つける言葉にもなるように思います
 対局相手に感謝の意味で「ありがとうございました」で充分丁寧な挨拶と考えられるのですが・・・
 「私の完敗です」とか「参りました・・・」「大変勉強になりました・・・」でも気持ちは表せるはずです。
 殊更前の3つのように理由を言わなくてはいけないのかが、微妙に気持ちにズレが生じるようなのです。
 
 つまり、投了の理由をこれだけはっきり言うのは、もしかしたら回線とかパソコンの調子が悪くなければ・・・あるいは、急用が出来なければ・・・と言うようなことが言外に込められているような印象がある。
 それは裏読みに過ぎるとか、そう考える人が性格が悪いのではと言う自己嫌悪にも落ち込みそうでもある。
 私は古い人間なんでしょうか「投了するなら、『投了します。ありがとうございました』だけで良い」と考えています。
  余りそこに手を加えると反って味が悪くなる
 投了の理由を相手に告げる必要があるのだろうか?

 ここまでは、負けた人が言うのだからまだいい
私が投了した時に「ありがとうございました」と送った時に、相手からの返事が「・・・投了させて戴きました」が帰ってくると心穏やかではいられない。
  言葉では投了させて戴きましたですが、タイゼムではないけれど、結果は翻ることは無いのは当然です。
 相当に馬鹿にされているというか、からかわれているということでしょうね?
  勝てば官軍ではないけれど、勝った時は何でもアリ的な態度に思えます
   日本だけかも知れないけれど、勝った時ほど謙虚に振舞うと言う”美学?”はどうなってしまったのだろう・・・一部の人ではあるが
 こういうことは囲碁というものの性格上あってはならないことです。
 囲碁でも柔道でも相撲でも「礼に始まって礼に終わる」でなくて困る。

  
 挨拶文のミスクリックではないとすると、一種の愉快犯だろうか
 それとも私への何かのペナルティ的お仕置きや意趣返し・例えば「やっと投了したのか=投了が遅い」か「これだけ差があって投了しなかった」みたいな・・・
 いずれにせよ対局者同士のやり取りですから、観戦者には見えないところで挨拶が行きかっている・・・

 もう一つ
 対局が終わって地を数えて、仮に私が数目残った時に相手からの承認が無くて、この時点で投了する人がいた。
 点数から言うとかなりの方なんだけれど、リアルでは打たない人なんだろうか、終局後の投了なんてあり得ないことです。
 目算を含め読みと違っていて余程悔しかったのでしょうか?
  私みたいなヘボに負けたのが、その方にはあり得ないことだったのでしょう

 そういえば、もう一人変わった人がいた(もしかしたら”変わった”と言ってはいけないのかも知れないのですが)
 向う3子での対局
  終盤まで打って・・・白にとって局面が好転せずに終局間近
   目算するとマア良くても白3,4目足りないけれど、まあ「ここまで打ったのだから最後まで打つのが礼儀だろう」と打っていた・・・ところ
 相手が投了した!!
  あいさつ文が「急用が出来たので・・・」
 その通りかも知れないけれど、もしかしたら白に勝ち点をプレゼントしただけかも知れない・・・その可能性が強い。
  細かいながらはっきり黒が良いのだから「打ち掛け提案」でもいいはず・・・この場合は応じるでしょう。
 何だか情け無い勝利でした。
  負けた時はバッサリと首を切られる方が気持ちが好いですね。

いずれにせよいろんな人がいます
 但し繰り返しになるけれどネットの定例文のリストからアノ3つは削って欲しい 


定位置

2007-03-13 04:28:48 | Weblog
 皆さんは碁を打つときの場所は決まっているでしょうか?
 リアルの場合、碁会所とかコミュニティに関して言うと、空いているところで打つのですから、あまり選べない。
 自分のお気に入りの場所があってもそこで既に対局が始まっていれば、「どいて欲しい」とは言えません。
 もしも、それを言ったらと想像すると・・・落語的トラブルが発生するかも知れません
 「恐れ入りますが、そこのご両人にお願いが有ります」
 「何でー、今碁を打っている最中だお願いなら後にしてくれ」
 「いえ、決してお手間は取らせません」
 「面倒なのは御免だよ、早いとこ言ってくれ」
 「早速のご承知有りがとうございます」
 「まどろっこしいな、こっちは今難しい局面で、取り込み中なんだよ」
 「ではお言葉に甘えて、早速お願いを申し上げます、そこで碁を打ちたいのですが・・・ご承知くださいますか?」
 「ご承知たって、今打っているんだ、それとも何かい俺の碁をこの後替わって打ちたいってのかい?」
 「いえ、そうではないので、そこの碁盤をちょいと持ち上げてずらせて戴ければ好いんですが、お願いできますか?」
 「なんだい、ヘボ碁は向うの隅で小さくなっていろと言いたいのか」
  なんていうストーリーを頭の中で思い浮かべて眺めたりすることが有ります
 つまり同じ人たちが、いつも同じ場所で打っていることがあるのです。
 昔通っていた碁会所では、そこはビルの2Fにあって椅子席の碁会所でしたが
  どうも座る位置に癖があるようでした。
 入り口付近が好きという人は見かけませんでしたが、窓の近くが好きとか、壁を背に打つと落ち着くとかはあったようです。
  ですから、20面くらいあっても同じ組み合わせの対局が、同じ位置で打っているのですから何だか不思議な気がします。
 もし定点カメラがあったら面白いですね。
 
 コミュにしても似たようなことが有ります。
 ある人は自分の上手の人に打ってもらうのがすきなんですが、その場所は座敷ではなくて、縁側になっている板敷きの部分に座布団を敷いて打つのが好きなんです。
 まず、そこが空いていればそこが定位置。
  そこは縁側で庭に面した大きな窓ガラスの内側ですから明るい場所で、人が部屋に大勢いても比較的空気が好いはず。
 それともう一つ条件が加わります
  縁側と部屋の間に障子の戸があるのです。
 だからこの障子を引いておけば狭いながらも独立した対局室となる
  そういう意味で落ち着くのか、あるいは自分の碁を覗かれないと言う意味で落ち着いて打てるのか・・・
 どうも後者のような気もする。
  この人は、仮に縁側の間が塞がっていたとして、畳の部屋で打つとしても、部屋の中央に近いところでは打たないでしょう。
 隅に近いところが好きなようです
  言い忘れましたが、縁側の板の間の上では座布団がないと足とかお尻が痛いので座布団がもし出払っているとそこでは打たないものなんですが、この人はそれでもそこが良いらしい。
 自分の座布団は無くても相手の為に何処からか探してくるのですから・・・

 気持ちが落ち着く場所ということなのか、更に覗かれることが嫌なんでしょうね
  碁会所とかコミュニティというオープンな場所で打っているのに、お気に入りの場所があるのでしょう。
 
 マア私なども自宅でネットで打つにも決まっている場所があるのですから・・・その話は明日の夜に。 

麒麟も駑馬に

2007-03-12 00:34:00 | Weblog
 タイトルは少し大きく出ました。
 私は現在は勿論過去においても麒麟だったことは無いから、その点は過大表現ではある・・・麒麟だって年をとれば駑馬にも劣るのだから、ましてや凡夫の身では行く末は知れている分けです。
  マア今人気のあるの漫才の「キリン」のファンではあるけれど。
 ともかく残念なことに私が駑馬の仲間であることは間違いない。
  結局のところ麒麟ではなかったにせよ、老化によって失われていくものは体力だけでは無さそうで、囲碁などの面でも失っていくものが多々あるようなのです・・・少なくとも私の場合はですが
 逆もあるはずなんだけど、若い頃には無かったものを、年令・経験を重ねて獲得するものがあるはずなんですが、そのバランスシートがマイナスが大きいような気がします。
 失ったものが大きくていろいろあるのに、獲得したものは見えてきません。
  もしかしたら全くマイナスオンリーかもしれないと思う・・・脳細胞が死滅の一途を辿っているらしい
 この点脳梗塞のキャリアとしては恐ろしくもある。
  MRIの写真で「脳が隙間だけではなくて穴だらけです」と言われそうです
 脳の中身の心配しても始まらないから考えないことにしていますが(考えると怖いですから)
 美容整形並みに「脳を若返らせる薬」とか「脳の若さを維持するクリーム」など出来たら大変な人気でしょうね。
 出来たら良いのだけれど、想像するにきっと大変高価でお金持ちしか手が出ないでしょう・・・今から無いもののことで心配したり腹立てたりしています
 それは宝くじを買って、当たった時の心配をすることに似ているし、杞の国の人が空が落ちてくるのを心配するみたいなものです。
  それで、老化について碁に限っていうと
 慢心とか集中力の欠如とかがありそうです、勿論本人としては意識してやっているはずは無い・・・具体的には
 まず、今一歩の突っ込んだと言うか、掘り下げが出来ていない
  例えば死活に関してなら、今までの経験からこれは「凌げるだろう」とかをイメージするとそこで思考がストップしてしまう、相手からのあらゆる手段などの検討が疎かになっているのです
 それはイメージ先行で裏づけが無いとも言えるし、場面・局面が客観的に見えていなくて主観的以前に希望的に見てしまう傾向が有りそうです。
  「勝手読み」で、読みにもなっていないのが情け無い
 こういうとき相手に急所の一手を打たれて痺れるのですがお決まりのパターンですが、相手にとっては急所であってもそれほど凄い手を打ったということではないのに、当方が過剰に痺れているという状態だと思われる。
 まさに手ごたえの無いジイサマになっている。
  ネットですから年令は分からないでしょうが、老人的な頑固さと集中力の無さなどを考えると、きっと年令は盤上に現れているに違いない
 
 さて集中力についても、レベルが落ちているでしょう
  私の場合(分けて考えて好いかどうか分かりませんが)・・・棋力的なものの不足を集中力で何とかカバーしていくタイプ(タイプの話でどれだけ出来ているかは別ですが)
 そこから集中力が衰えたらどうなるか。
  経験とか囲碁年数が持つ蓄えは多少あるにしても、ここと言う時の力が無い
 もっと言うと「ここと言う時」の「ここ」を判断する「ここ」を感じる「アンテナの感度が錆びているようなのです。
 言葉では「円熟」などというものが有り、年とともに豊かになっていくものを指しているのでしょうが、私は「円熟」とは縁が無く「立ち枯れ」の方向に進んでいるようです。
 全く現世の欲から離れらず、煩悩の海でおぼれているような「碁」にドップリ・・・「ザルとか素人は皆そうだ」とことであるなら、私も立派に素人碁客には違い無さそうです。 

夢の対局

2007-03-11 02:02:50 | Weblog
 以前、海外で碁を打った話をしました。
 実際には一局だけで、それも同行の人と宿泊先のホテルの部屋で・・・ベッドの上に磁石盤セットを置いて打ったのです。
 私はまだ若くて社長の鞄持ちで随行し、その人は社長仲間の半ゲストでした
  しかも、私が磁石盤を持ってきたことを知って、”ご苦労さん”ということで付き合ってくれたのです。
 マア、それでもカナダのバンフスプリングホテルで打ったという記念ではある。
  しかし、訪問先のクラブなどで、そこの国の人と打ったのではないから、外国で打ったことになるかどうか?
 いつかは外国でそういう機会があれば好いなとは思いますが、現実にはそういう機会は訪れそうも無い
 私がもう20才も若ければ可能性があるかも知れません
  ただし、日本人的観光旅行では現地でのそういう遊び方は考慮されないかもしれないから、外国に移住でもしない限り実現しないでしょう。
 移住の可能性は限りなく0に近いから、これは夢物語です

 夢の次元ですが、昼間は観光夜は囲碁を出来ればかなり充実した旅行になりそうです。
 現在でもネットで打つだけなら、パンダなどで可能ですが、じかに触れるとなるとネットでは無理
 碁は手談といいますが、これはリアルでないと成立しないでしょう。
  ネットでは相手の表情・呼吸・匂いなどが分からないのですから、対局交流はあってもリアルの交流とは比べられないでしょう

  そういう意味で
 パンダで打っていた時に「アメリカ人は短い勝負が好き」「ロシア人はチェスが強いせいか碁も強い人が多い」「韓国人は力が強い」「中国人は粘り強い」「ドイツ人はオーソドックス」などなど、ホンの一部を垣間見ただけで、全体の印象みたいに思っていたものが、もし実際にその国で打って既成顔念と現実の印象のギャップなどがあったら、それはそれで面白いのではないかと思うのだけれど・・・今となっては資金的・年齢的・体力・健康面で難しいようです。
 こういうことに気がつくのが遅かった。

 夢といえば、私の最も対局の多い時間帯は多分深夜1時ごろでしょう。
  その時間が夢を見る時間というのではありません。
   その時間で打つのなら、ある条件で打ちたいという夢があるのです。
 時間が時間ですから、相手は目の前にいなくても仕方が有りません
  ネットで打つとして打つ場所が・・・夢なのです。
 第一候補は、伊豆天城山辺りの高いところで富士山が見えるところ
 第二候補は、出身地に近い静岡方面でこれも富士山が見えるところ
  要するに富士山が見える場所に自宅でも山荘でも好いが、滞在あるいは居住できること。
 そしてインターネットの設備があることは当然です。
  知り合いが遊びに来てくれるのなら申し分ない
 「深夜の対局」で「富士山が見える」という2つの条件は一見矛盾しているみたいですが、ここが”夢”のミソなのです。
 実は厳冬期は違うのです
  条件は有ります、満月に近い明るい夜・雲が少なくて晴れていなくてはいけません
 そして真冬の富士山ですから、上のほうは雪が被っている
  こういう条件が重なると、深夜でも富士山は見えるのです。
 寧ろ厳かというか、何にやら神秘的に空に浮かんでいるようにさえ見えるのです
高校の時に何気なく2階の踊り場の窓を開けて、この姿を見てしまったのです
 以来私一人の秘密で家族にも話したことは有りません
  もっとも「だからどうなんだ!」と言われると応え様が有りませんが、こういう環境で打ってみたいと思うのです。
 対局のあい間に窓を開けて見るでも好いし、窓の外のその風景を見ながら打つでも好い。
 盤上に現れるのは相変わらずのザル碁でしょうが、そういう環境で打てれば何かしら充実感があるのではないかと想像するのです。
 実現させるには、しかるべきところにしかるべき建物を手に入れて、そこで暮らす条件を整えることですから、相当ハードルが高い・・・
 やはり夢は夢なんでしょう 

半目勝負・再び

2007-03-10 02:38:12 | Weblog
 「半目勝負は運が好いほうが勝ち、1目半は強い方が勝つ」
 これはタイゼムで聞いた話です。
  しかし、こういう風に言えるとしたらその人はプロかプロ並に強い人に違いないと思います。
 そのレベルの対局で、半コウのコウ立てとか手止まりなどを読みきった上で計算した結果、自分の取った作戦など以上に、めぐり合わせに恵まれたという感想なのでしょう。
 それは相手の強さも認めた上での”恵まれた”のはずです・・・それが1目半になると実力差になってしまうという怖い世界ですね。
 マアそれは私などのかかわりの無い世界での話で、コチトラは1目半が5目半でも運の世界です。
 いや、勝つこと事態が運が好いということです。
  
 先日私が半目残った話は、半目を意識した戦いではあったけれど、実際には計算間違いをしていたのだから、運が良いこと以上に間の抜けた話でした。
  大学入試に例えると、自己採点の結果悲観的になって、予備校の準備をしているところへ合格通知が来たようなものです。
  早まって投了して、数えてみたら勝っていたなんてのは無いけれど・・・
 ともかく、碁に限っていうと打っている本人は”運を争っている”とは思っていない、必然の積み重ねで対局をしていると(勘違いにせよ)思っているわけです。
 部分的な生き死にとか定石の進行などは、一応必然です
  但しそういう変化を、きちんと読めるかどうか、いつもは出来るのにその時だけ出来ないというのも運なのか?・・・
 作戦とか大局観で、「どう打っても一局」というところで、その時は見通せなくてもその選択が後に重大な影響があったとしたら、それも運なのでしょうか?
 こういう要素を考えて、素人の方は”運”と考えるものが多くてプロの方が少ないでしょう

 さて先日の半目勝ちの後はひどい碁を打って連敗を喫した。
  だから自分の責任を棚に上げていえば、決して運の好い状態とは言えないような気がします。
 余りにひどい手で運の神様も助けようが無かったか、助ける暇も無くあっという間に負けたのでしょう。
 ともかく、その対局に負けると3連敗という一局です
  こういう対局は切所というか、肝心な曲がり角の対局です
 普通、強い人は連敗をしないと言います・・・連敗しないということは、そこから点数が上がることはあっても、2点は下がらばいということを意味しますから、それは強いはずです。
  残念ながら私とは縁の無い話で、こちらはせいぜい3連敗は阻止したい・・・そうすれば一応今の辺りの点数を徘徊できるというレベルです。
 もし3連敗するならば、そのまま勢いよく連敗街道をまっしぐらになりそうで、その切所が2連敗した時点2有りそう。
 事実3連敗すると、もう一生勝てないような気分になる。

 さて、その碁は私の先番でコミ半目出し・つまり点数で6点上の人
  序盤・中盤と競り合いが続きます・全く強い人は楽をさせてくれません。
 形勢は贔屓目に見れば少し良いかとも見えるけれど、本当のところは分かりません。
 そんな局面で白が当て込んできました。
  (こういう場面は絵で説明すれば早いのですが、まあ拙い分でご勘弁を)
 素直に打つならば、ここで黒は自陣に手入れで何事も起きませんが、それでは白の先手で1目打たれたことになります。(実際には手入れをしておいて、白の目を1つ潰す手が残るので、確率的には半目の手が残るのですが、機敏に戦わなければいけないと「先に当たりをかけて、白の継ぎを待って自陣の手入れに戻る」手を選んだのです。
 もしこの通り進行すれば、先程確率的に半目だった手を1目として打ったことになるので、細かな勝負だからそのように打つ魅力には勝てなかったのです。
 当然のこと、白は継ぐはずも無く、黒が白に当たりをかけた故にダメつまりになった大石に逆に当たりをかけてきて、ここで大きなコウ争いが始まった。
 この石を取られると、上げハマ+地の減りで20目は損をするから、振り替りに失敗したらここで勝負は決まってしまいます。
 結局のところ、私は振り替りで2目損をしたのです・・・これは競り合いの中で痛恨の事態
 しかし”運”が良かったらしい
  振り替りの副次的な効果で、周辺の私の石はダメ詰まりになっても、手入れが不要となった・・・それが一つ
 更に振り替わった形が、どうも黒の半先手に近いらしい・・・
  こういうことは実質の2目損より大きかったようで、その後大きい順に寄せて・・・黒の半目勝ち!

もう時間も余裕が無かったから、ひたすら大きな順に打つしかなかった状況ですから、全くの結果オーらいではある。
 局後の一人反省会で「自戦譜検索」
  例の問題の場面・黒が白に当たりをかけ逆に反撃を呼んだところで、もしこの手で白の要求どおり素直に自陣に手入れをした場合のシュミレーションです。
 この場合は振り替わりなど発生しませんから単純に大きい順に寄せを打つと・・・何と白の半目勝ちになっている。
 全く運の領域で戦っている。
  プロならばそこまで分かっていての戦いなんでしょうが、素人には(私レベルでは)無理なんでしょうね。
  だから”運が好い”ことを素直に喜ばなくてはいけません。 
 

居眠り御免

2007-03-09 00:58:09 | Weblog
 そろそろ春眠暁を憶えずの季節ですが、私に限っては季節とは関係無く、眠い時に眠り・・・という動物的?に睡眠をとっていたのですが、ここのところ早朝に目が醒めてしまう、まさに「老人性早起き症候群」に陥っています。
 私の意志と関係なく4時半に目が覚める
「そんなに早く目が醒めてどうするんだ!」という感じです
 早朝にやらなきゃならないことは何もないですからね
  ごそごそやっていたら家族にも嫌がられるだろうし・・・
 要するに若い頃とは違って、長い時間寝ていられる体力が無くなったということでしょう
 しかし早く目が醒めれば、確実に睡眠時間は短くなるのだが、体力で押し切ってしまうようなエネルギーはもはや無い
 仕事で車は運転するし、お客にオープンな事務所ですから寝ているところを見せるわけにはいかない・・・
 そういうことで、昼休みの仮眠とか宵の口に少し寝るとかが大事なケアになっている>>>だからまた朝早く目が醒めるのかも知れないけれど
 家にいる時は、食事と入浴以外では、パソコンを打っていたりネットに繋いでいたり本を読んでいることが殆どですが、家族にしてみると眠っているところを見ているから(起きて何かをしているところは見ていない)寝てばかりいるジイサマだと思っているに違いない。
 
 細切れ的な寝方は高校時代から始まっているかも知れませんから、もしそうだとすると40年はやっていることになる
 眠れないということは無くて、寝ようと思えばいつ何処でも眠れる・・・それは一種の特技ではなくて、もしかしたら慢性的睡眠不足の現われなのかも
 そこのところは注意が必要ですね
  囲碁の観戦していたはずなのに、気がつくと終局していて対局室に誰も居なかったり・・・勿論リアルではなくてネットの対局室です
 対局していた人には申し訳ないような気分は感じているのです
  決して眠くなるような碁だからなどと眠るのではありません。
 切った張ったの大激戦が続くような対局なら眠らないかもしれませんが・・・
  しかし、もしかしたら前に話したことがあるように、これはご先祖様のDNAの祟りかも知れません
 しかも一族で私だけが受け継いでいるらしい

父もその母親の・私にとっては祖母ももう居りませんが、父が第3子で明治44年生まれですから祖母はだいたい明治20年頃に生まれていたでしょう。
 そうすると概ね祖母の父親は幕末ギリギリ、そのまた父・つまり祖母にとっての祖父は幕末生まれということになります
 多分その辺りのご先祖様のことだろうと思われる
  その方の「睡眠DNA」に関するエピソードが残っています。
 「何処でも寝てしまう人」だったらしいのです
  東海道の藤枝辺りに田中藩という譜代ですが余り大きくない大名がいまして、ご先祖様はその家臣だった。
 役職とか家禄は分かりませんが、槍か弓の師範だったとか・・・
  身分は分かりませんが”お目見え”だったようではある
 このご先祖様は、殿様の前でも寝てしまう人だったらしい
  本来なら侍にはあるまじき行為ですから、叱責ではすまないかも知れませんが
 この殿様はやさしい人だったのか、呆れていたのかどちらか分かりませんが「居眠り御免」のお墨付きを与えられたといいます。
 当時の言葉で「木戸御免」なら劇場での入場フリーとか、「銭湯無料」の意味で、怖い言い方なら「切捨て御免」など有り、「御免」はライセンスという意味です・蛇足ながら。
  だから堂々と眠れる?
 ご先祖様は”自分と関係ないと思われる話””興味が持てない話が続く”と寝てしまったかな?
 それだと私に似ている・・・いや順序が逆だから、私がしっかり血筋を受け継いでいるらしい。
 そういえば高校時代は、常に私は真ん中の最前列が指定席でした(体は大きいし、目も良かったのに)。
  科目ごとに先生が変わるのに、皆私はそこを指定されてしまう。
   もっとも、だからといって眠らないわけでもないですが・・・
  「眠っても回りに迷惑な鼾はかくな!」という先生もいた。
 これも「居眠り御免」の一種かも知れない。

 それで、私の観戦中の居眠り癖の言い訳になるでしょうか?
  さてこの話の下書きは勤め先の昼休みに書いています・・・ただいま昼の12時35分ですから1時迄にあと25分ある、充分に眠れます 

ケイマに突き出せ!

2007-03-08 00:39:09 | Weblog
 ここのところ、割合短い間にNHKの秀行先先を取材した番組・タイトルははっきり憶えていませんが「・・・無頼派・・・」を何回か見ました。
 本放送、再放送、再々放送と有りました。
  それに「1チャンネル」とBSでもやっていましたしね。
 その中で秀行塾の模様が取材されていた
若手に打ち碁を並べさせて、指導する秀行先生
 その横で見ている武宮九段、少し離れて結城九段・・・高尾先生でさえ遠くから・しかし熱心に見ている。
  若い棋士にが大勢取り巻いている
   この先生との距離は囲碁界でのポジションみたいなものを表しているのだろうか?・・・高尾さんも少し遠いところで見ていたような
 尤も彼は直弟子だから遠慮があるのかな?とか内容と関係無いことを考えたりしながら見ていました。

 その時に若手に指摘した手を、番組の中で(秀行塾とは別の場所で)武宮九段が解説してくれました。
 囲碁ファンだけでなく、全く碁を知らない人も見ているであろう番組ですから視聴者が皆分かったとは思えませんが、囲碁を知らない人にもニュアンスが伝わるように話してくれたと思います・・・もしかしてこういうシーンをきっかけに興味を持つ人が出れば好いなと思いました。
 碁の「着手」についての指摘の内容を、分かり易く・手そのものと状況を説明したものです。
「あの手は普通なら良くない手とされていますからプロは考えない手です。秀行先生は”ここに打つとどうなる?”と言っています。少なくともその手も考えて見ろと言っているのです。」
「あの変化では途中まで打った石の流れが変わっています。あれでは石に愛情が無さ過ぎると先生は言っているのです」のような話だったと思う・・・
 成る程、プロにはプロならではの盲点見たいなものがあることは感じられました。
 話が飛びますが、詰め碁の問題で「素人が簡単に解ける詰め碁を、プロがウンウン唸って3日もかかってやっと解けた」という話を思い出しました。
  素人には見えるけれど、プロには盲点というのもあるのですね。

 そういえば真面目な囲碁格言をパロディのようにしたり、面白格言があった・・・それに私の経験的なアホ格言を加えると。
例えば「ケイマの突き出しこの一手」だって成立する場面もある?
 アマでも無頓着な人はケイマに突き出すことは日常茶飯事ですが、逆に筋に明るい人・美学的に拘る人は決してそれは打たない。
 こういうことは観戦していると感じます・・・
  「ケイマの突き出し悪手の見本」という格言があり、確率的に正しい%が高いと思うのですが
 しかしどちらが正しいとは言えないとも私は思うのです・・・少しずるいですがその局面による。
 だから全てが正しくて全て悪いという100%ではなくて、確率的には悪いことが多いということだろうと思うので、無自覚的に打っている人への警句として発せられていると考える。
 だから逆の側から見て、全て間違いだから決してその手は打たないという人は一見筋が良い人ですが、100%いつも正しいとは言えないわけで、その意味では無自覚的な人より確率的に正しいだけで50歩100歩みたいなもののような気もします。
  ケイマの突き出しを打たない人は、平気で打つ人と一緒にされたら不愉快かも知れませんが・・・
 似たような格言で
「上手まっすぐ ヘボこすみ」とか「下手の両つけ」とかありますなどの”べからず集”が有ります。
 ”こういう手を打っていると勝てませんよ”とか”上達しませんよ”という警句ではあるのですが、いつでも正しい警告かどうかが問題でしょう。
 肝心な場面で「警告」を思い出し”筋の良い手”を打ったら、その場面に限っては”例外”だったということは有りませんか?
 こういう警告は碁の上達とか筋を身につけるうえで便利です・・・が、掛け算九九のように暗記して憶えたモノがそのまま常にその通りでもないでしょう。
 だから「格言」としてとりあえず覚えて、ケースバイケースもあることを理解して応用するというのが良い様に思います。
 そういう形で上達する?

 悪手の見本と言われる形でも、「この局面この一手」もあると言うことでしょう
  だからそんな場面で自分の考えたことを信じて「悪手の見本」を打てるかどうか?
 それは一見筋が良くても、「自覚しないで打つ」「筋が良いと言われているから打つ」に比べればずっと良いのではないだろうか。
 その逆みたいな場面もあります・・・と思っています
「一間跳びに悪手なし」と言いながら打つ人が居ます。(言っても言わなくても良いのですが)
 偶々でしょうが、私の向う2子・3子局では多いです
そこで私もヘラズ口では負けていませんから「・・・時による」と混ぜっ返します。
 これは単に言葉での遊びでもあり、相手も見ている人もそのように受け取っているのでしょうが、私としては案外本心でもあるのです。
 私は「1間跳びは時として切れるから、切られた時の対策を考えて置くのも大事ですよ」と言っているつもりなんだけど・・・
 マア一般的に言えば備えあれば憂いなしというところ
  「相手が1間跳びで安心しているところに、つけこむ隙があるかも知れない」

 群れで水場に来たシマウマを物陰から狙うライオン(本当はハイエナかも)
  桶狭間で休憩中の今川義元・・・
ということで「ケイマの突き出し、この一手」もあると考えるのです。
 確率的には低くても、あるときはある。

 実感として、こういう「常識外の手?」が無い・少ない人は怖くない。
  これは一種のパラドックスではあるけれど・・・
 例えば本当に強い人は私程度が相手なら何もしなくても勝てるでしょうから、この話の基準外ですし、そのレベルの常識と言うものが尺度が違うかも知れないので、常識云々も意味が無いかもしれません。
 ですから日頃私と打つくらいの「ドングリクラブ」と言う範囲での話しです。
  確かに筋の良い人は「非常識な手?」は打ちません。
 それで悪いわけではないのですが「一発の怖さ」も無いとも
  上手い手・良い手は打つけれど「怖くは無い」
 所謂常識的な手なら予測できるわけで・・・勿論こちらがアホやれば負けるのですが、予測範囲の読みの中での戦いです。

いずれにせよ矛盾することはある
「形は悪いのに妙に勝負強い」とか「筋はいいのに勝負に強い」とか
 私にしても一度くらいは「姿形もいいし碁も強い」と言われてみたい・・・永遠の夢でしょうが 

眠りたくない夜

2007-03-07 05:37:22 | Weblog
 先日「眠れなくて困ったことは無い」と書きましたが、それは普通は”眠りたいのに眠れない”状態で、それは無いのです。
 但し、眠りたくないとか、”眠くても眠りたくない”はあるのです。
  徹夜マージャンとか、何かのイベントの追い込みとかではなくて、普段の夜の話です。
 若い頃は、眠るということはなにやら人生を無駄にしているように感じた時期が有りました。
 例えば他人は1日24時間のうち8時間眠るのが理想的だとか(今は7時間かも知れませんが)、ということは人生の三分の一は寝ていることになる
 だから90才まで生きたとして30年は寝ている
  当然というかもったいないというか・・・
 最も今では反動で、暇があれば寝てしまいます>>>案外バランスが取れている?

 眠れないというより眠りたくないという感じでしょうか
眠ることに罪悪感を感じた時期、あるいは眠ったまま二度と目が覚めないのではないかという恐怖感を持ったこと・・・
 そして先日みたいに寝ていてドライアイのアクシデントに遭いそうになって眠るのがためらわれる時などあるのです。

さて、そのドライアイ事故になりかかったのが朝4時半頃でした
 痛みは少しで済みましたが、目の中が何だかゴロゴロしています・・・何とか目薬ですみましたが、このまま眠るとまたドライに見舞われるかも知れないという心配があった。
 時間が時間だから「マア好いか」でパソコンを立ち上げてネットに接続です
  (こういう生活態度が原因の一つかも知れないけれど、これは死ななきゃ直りそうも有りません)
 そしたら、偶々同じくらいの点数の他人が「対局待ち」でした。
  向う先・黒2目半コミ出し・・・未明の対局です
 碁の中身としては、贔屓目でしょうが白なかなかよく打てたと思います。
  寝ていて目が覚めて間もないにしてはというオマケも有りますが・・・
 私は例によって隅を中心に実利を稼ぎまくって、相手は大模様
  私の方は余り減らない地なので、後は黒の大模様を制限するか、多少値切れるかが勝負のようです。
  ここで私の大チョンボが出た!!

 最近・特に感じるのですが、ある場所を打ち切っていると考えている時、その部分に無感覚になってしまうのです。
 打ち切ったとはいえ、周りの条件が変われば手が生じることはあるわけで、この条件の変化に鈍くなっているのかも知れないのです。
 だから相手が”狙いの準備工作”に弱い
  ”何やってんだろう、そんなところで?”なんて変に余裕を持って見ていると
「あっと言ったがこの世の別れ」みたいな場面になったり・・・
 実はこういう仕掛けは、私が得意とまではいかないけれど好きな作戦です
  一見余り関係無さそうな手の狙いが、実は別のところだったり、何だかマジックみたいな作戦が好きなんですが、やはり格言通り(私の格言か?)「弱点は自分の得意技」みたいなことになっている。
 それは「押し相撲は押し相撲に弱い」とか、私みたいに「地を稼ぐタイプは、地を稼がれるのに弱い」みたいな感じです。

 大チョンボはあったけれど、この碁はまだ細かそうで、大寄せ・小寄せと局面は進みます。
 目算では、私が撥ねっぱなしとか、半コウを何箇所も放置してあるので、計算が面倒でしたがどうやら半目勝負のように見える。
 私に半目残るか?
実際には半コウのコウ立てに間違いがありました・・・2コウ足りない!
 現実の地の計算で”半”は無いから1目計算間違いだから、逆に半目足りない
この時点で粘るのも変だから「首を洗って、終局要請」です
 相手が半コウを繋いで、パソコンが地の計算です。
  結果・・・何と白半目勝ち!・・・どうして?
 パソコンが計算間違いをしないだろうから、私がどこかで間違っていたらしい。
何度も数えているのに、同じ人間の計算は同じところでミスをするのでしょうね
 全く半目勝ちは運がいいのだけれど、手放しでは喜べない複雑な心境です。
  相手は読みどおりだったのだろうか? 

サングラスで対局?

2007-03-06 00:18:05 | Weblog
 これはきっとドライアイとかいうものだろう。
 眼科医に診察してもらっていないから、はっきりしたことは言えないけれども”瞼と眼球の表面がくっついてしまうようなことが偶に起こるのです。
 今回は大事に至る前に一旦目を閉じてから、ゆっくりと目を開けたので事なきを得ましたが、万一普通に目を開けると大変だったかも知れないのです。
 何年か前の左目の角膜の一部を損傷するアクシデントに遭って以来だと思う、3ヶ月から半年ぐらいの間隔で起きるのです。
 眠っていて、何かの弾みで目を開けようとするときに起きます。
  目を開ける時、くっついている瞼と角膜を無理に剥がす形になるので、角膜の方が瞼についていこうとする・・・これが猛烈な痛み+涙の雨です。
 これって昔アクシデントに遭った左目でしか起きない・・・やはり因果関係があるのかな?
 しかし慣れてきたのか、かすかな痛みを感じると目をフルオープンするのを止めて、一旦バックしてスローになるのだから、自分では凄い順応だと思うけれど、これは他人に説明しても分からないでしょうね。
  日頃の注意点は分からないけれど、もしかしたら今朝のは連休がらみかもしれません
 連休ですと2日の間パソコン、TVでのスポーツ放送、それに読書と目ばかり使っているから、やはり酷使の部類なのかもしれません
 それに成人病とも関係あるのかな?
  いずれにせよ目が見え無くなったら大変です。
 今のところはコンタクト用とか「涙・・・」の目薬で何とかなってはいます。

  そんなことで目に関する話をもう一つ
TVニュースを見ていたら、あの有名な女子ゴルファーがサングラスでプレーしていました。
 いつも帽子の上にサングラスを乗せているのだから、アレはファッションで本人はアレがカッコいいとか可愛いと思っているのだろうと見ていた・・・かけてプレーしても不思議ではないけれど、あのスタイルは格好だけでもなかったんだという感じです。
 しかし、私みたいな古い人間にはしっくり来ない
  戦後生まれでは有りますが、アレはマッカーサーか目の不自由なマッサージ師さんのイメージです。
  あるいは特殊な稼業の人。
 日差しの強い時に目の保護の為に使うのはこの限りでは有りませんし、サングラスの方がよく見えるのなら、寧ろ当然使うべきでしょう
 ファッションとしても掛けたい場合もあるでしょうからそれも好い。
しかし、さして日差しが強いとも思えなかったので・・・曇っている日でもサングラス>それはウォーキングなどで上着を手に持つ代わりに腰に巻きつけるのが、いつの間にかスタイルというかファッションになっているみたいな・・・
 もう一つスポーツニュースで今年からメジャーに行った選手が、サングラスでバティング練習していました。
  キャンプ地はフロリダ方面だからこの季節でも日差しが強いのかも知れません・・・が
 本当に必要なんだろうか?
  バッティングの時のサングラスは・・・よく分かりません
 また止まっているボールを打つゴルフと野球では同じかどうかも分かりません
  ともかく、サングラスにはファッションと機能の両面があるから、それを生業にしている人たちが使っているのだから、傍がとやかく言うのも変ではある
 
 そうそうサングラスにはもう一つ効用が有りました
  「心理的」効用といいましょうか、マラソンや駅伝のランナーが使っています。
 真夏のレースではなくて、真冬の箱根でも使うのですから、これは機能とかファッション以外に「心理戦」があるのでしょう
 「目は口ほどに物を言う」から相手に自分の目を見せない!
  表情から自分の心理や体調を読み取らせない
   相手にはこちらの手の内を見せない!そういう状態で自分の気持ちに余裕が出来る・・・
 確かにそのような効果はあると思えます

 効果があるとしたなら、囲碁でサングラスをかけてはいけないだろうか?
 光線の具合で色がつく眼鏡を使用している棋士はいるとは思いますが、はっきりとサングラス着用での対局は見たことが無いから禁止なのだろうか
 ファッションはともかく、表情から心理を見せないという効果はある筈なんだけれど・・・もっとも盤面に集中している棋士には効果は期待できないかも?
 デストロイヤーみたいな覆面+サングラスで碁を打ったら、さぞかし異様な光景でしょう。
  プロはともかく、もし碁会所とかコミュニティでサングラスで打ったら、何だか顰蹙を買いそうに思えるが、でも先日話したように室内で帽子を被ったままの対局と大した差は無いと思える。
  但しコミュニティ入館の際に職員から注意を受けるかも知れないな・・・
 そこまで脱線しなくても・・・高校バレーとか駅伝みたいに鉢巻はどうだろうか?
 「必勝」なんて書いてあるアレです。
棋士が鉢巻をして対局するのは?
 盤を挟んで戦っているのだからおかしいとは思わないし、心の中では「必勝」を期して打っているはずですが、さすがに鉢巻「必勝」は露骨過ぎるかな?
 でもプロ棋士もゲン担ぎで通る道を変えたりするそうだから、必勝ネクタイとか必勝扇子以外に「必勝鉢巻」があっても好いかも知れ無い・・・ 

口は出せない!?

2007-03-05 04:11:29 | Weblog
 土曜日にはコミュニティに行ってきました。
 図書館が併設されているので、この日を待っていたのです・・・イベントでは有りませんが。
 2月の途中からなにやら本の整理とか、パソコン関連でソフトなどの変更があったらしい・・・3月1日リニューアルオープンです。
 仕事の関係でその日が私のオープンデーです
   さて、建物の入り口で「キャラメルポップコーン」の店が有りました。
 店といってポップコーンを作る機械とテーブルだけですが
  出来立てのポップコーンが大きな紙コップ(+サービス)で100円なので並んで買いました。
 これは近くのマリンスタジアムでの紙コップだそうで、あちらでは300円なのだそうです。
 綿菓子とか、こういうものはなんとなく縁日みたいで、手に持つだけで何だか楽しくなりそうです。
  融通の利かない頭で説明?すると、これは原因と結果が逆コース→つまり、縁日に綿菓子など売っている→綿菓子を食べると縁日見たいな気分になれる
 マアそんなことを考えながら並んで待っていると、前の老婦人が「いつもは見かけませんが、これはいつもやっているのですか?」と質問した
 この問いはなかなか鋭いと思う。
  何故かと言うと、私などは”ここでキャラメルポップコーンを売っているから並んだだけ”なのです。
 どうしてここで売っているのか考えなかった(どうでもいいかも知れないけれど)
 店の人の答えは「今日は(その日は)3月3日なので雛祭りだから」だった。
  その時は「ああ、そうなんだ」と納得したのですが、今このブログをタイピングしていると(今になって気がついたのだけれど)なんだか変です。
  どうして雛祭りだとキャラメルポップコーンなのか・・・その組み合わせではないのですが、ここは図書館併設だしコミュニティの原則として飲み物食べ物は原則禁止です。
 例外はホールで自動販売機の飲み物を飲んで(持ち込みの)サンドイッチなどは食べられるけれど、囲碁将棋の部屋では飲食禁止!・・・ホールのテーブルと椅子に座ってならOKらしい。
 綿菓子やポップコーンは歩きながら食べるのが楽しい>>>だから建物の入り口で買っても、中では食べないで持ってお帰りです。
 そんなことを連想して、老婦人が「いつもは売っていませんが?」という質問を「鋭い」と感じたのです。
  手に持って歩き回りたいけれど
 どうでも好い?事に引っかかりながら年をとっています

 どうでも好いといえば、ずっと以前に「気になる少年」というタイトルで話した少年に久しぶりに会いました。
 このコミュニティの図書館で本を借りて、いつもの娯楽室に寄ってみました
  (正しくは娯楽室ではなくて「安静室」というのですが、碁将棋の部屋が安静室だなんてどういうセンスの人が名付けたのだろうか?。もしかしたらコミュということで”お役人的センス”で娯楽室と名付けられなかったので、その代わりに捻り出した名前のような気もする)
 土曜日の午前は子供と大人が打つ日ですから、久しぶりにどうなっているのか寄ったのです。
 この時打っていたには2組でした
一組はいつものメンバー・・・会長のジイサマと年配の人
 もう一組は少年と余り見かけないお爺さん
  その少年の座り方で思い出しました・・・あの「気になる少年」でした
 子供には違いないが大分しっかりした顔に変わって来ている・・・成長している
体つきも何だか絞まってきて、しっかりしてきているようだ
 だが座り方は変わっていない!あの独特の片胡坐みたいだ。
  
 「大人に教わっているのにそれは無いでしょう」と思うところなんですが・・・
  みると少年が白で碁盤から察するとどうも置き碁みたいだ。
 これでは少年が教わっているのでは無い
  しかも・・・さっきは少年の座り方云々と言ったけれど、このジイサマも帽子を被ったまま碁を打っている。
 私には何度見てもこのスタイルには違和感を感じます。
  建物の中では男なら帽子を取れと躾けられて来た・・・しかも建物の中の更に和室の部屋で碁を打っているのに
 更にどうでも好いようなことかも知れないけれど、私としては更にショックがあった
  猛烈な早打ち!!
    少年の早打ちは”少年ならこんなものだろう”と思うことも出来るが、相手のジイサマの早打ちには”これは一体何でしょう”と言う感じでした。
 先程”打つ”と言いましたが、実は石を置いているだけです
  親指と人差し指で置いていくのです
 少年が打つと1秒以内には置いている・・・これがある程度考えた末の着手だとしたら物凄い性能のコンピューター搭載なんだろうけれど
 そして少年も早い・・・
  私は少し離れて座って見ていましたが、まさに見ていただけで疲れそうです
 盤面を追いかけるのは至難の業です
  まさにあっという間に1局は終わって少年の9目勝ちでした。
   ジイサマはまた碁盤に石を置きます・3子局でした
 
 この少年に座り方を初め、棋力はともかく年令の上の人にはどのように接したら好いかなど話たり教えなくてはいけないだろうとは思いましたが、次の1局まで見る気は無いしで腰を上げました。
 本当はこの少年にものを言うのなら、相手のジイサマから始めなくては少年だって納得するはずが無い!。
  寧ろ私はジイサマに文句を言いたかった。
 年恰好でいえば私より10か15は上なので人生では大先輩なのでしょうが、対局を見ていると何だか気持ちが沈ん行きます。
 それは棋力の問題ではないのです。
  打つ姿、碁盤に向かう姿勢の問題だと思うのです。
   棋力では少年に劣っても態度振る舞いは少年の手本でなくては困る
  少年たちをプロにしようとか、大それた企画ではないけれど、この対局はジイサマの暇つぶしになっているみたいです。
  私が立ち上がった時にその少年の視線がチラッと私の方も向いた・・・それはある意味で”助けてくれ”だったか?
 少年にとってこの対局はどんな意味なんだろうと思うと何だかやりきれなくなってきましたが、その場で口に出して言える問題かどうか・・・
 何だかジレンマ 
  
 

総合力!?

2007-03-04 00:04:59 | Weblog
 「点数差の疑念」という話をしましたが、その続きみたいな話で、見方を変えて・・・「上手には勝ちにくく、下手には比較的勝ちやすい」ということです。
 何かのデータがあっての証明ではないのですが、気持ちの中では確信に近いものが有るのでそれをお話しましょう。
 (コミの半目は話が煩雑になるので省略して話します。半目つきとかジゴ白勝ちという条件を省いています)
 段級差1つなら向う先・点数で6点差と同じです。
  つまり互い先で先番コミ6目出しの「コミ6目」分の特典が無くなっている
 それで、6目はどの程度の大きさ・着手としての価値かと言うと、どこかで2,3目得をして、ヨセの手順で立ち回って1目得の手を数箇所打てば、そこで形勢不明ということです。
 決して大石を御用にしなくても良い(出来れば簡単だけれど)
向う2子局でコミ無しは点差=コミ分で言うと18目差に相当します。
 だから先ほどの向う先のようなことが起きて、且つ4線の地を3線に押さえるとか、どこかで石を切って、生きるための手を打たせるとかできれば、概ね追いつけそうです。
 3子局の白の態度もその延長でしょう

このくらいの手合いの相手では、読む力というところではそんなに大きな差は無いでしょう。
 こちらが読んでいる「生死」「定石」などは時として相手のほうが読みが深くて鋭い時だって有ります。
 それでは上手とか下手と呼ぶのは変です・・・何処が違うのか?
読みの力ではプロと私みたいな普通のアマでは雲泥の差が有りますが、アマの中で3子差くらいなら、ドングリの背比べみたいなもので大差は無い。
 差があるとすれば「総合力」でしょうか

例えば「生き死に」を読む力は同じでも、意識的に相手をそういう形に導くとか
 定石そのものの知識はあっても、その組み合わせという構想力
  部分の損得だけでなく、全体で判断する大局観
 そういう力ではないだろうか
勿論相手よりミスが多くては話にならない。

 そういうことのほかに、”意志””立場”みたいな面から見ると
「上手としては追いかける立場ですから、ぬるい手は打てない」と思っています
 これは、駅伝で前のランナーを追う気持ちに似ているかも知れない。
同じペースなら永久に追いつけないから、オーバーペースを厭わずに「行け行け」です。
 勿論ゴール前でキッチリ差せる自信があれば、ゆっくり行けるのですが、それが出来るとしたら、相当読めるか余程強い人でしょう>
 
 難しい局面で「ここは切る一手」とか「手を抜くしかない・受けていられない」という場面が有ります。
 読み切れなくても、「ともかくそう打って、後は後のこと」・・・こういう手を境に局面は更に険しくなりますが、相手からの追求がゆるかったり、局面を5分以上に乗り切れたら・・・
 「ここでこう打たれたら難しい」と思いながらも打たざるを得ない時に、相手からの反撃・追求が無かったら・・・
 「上手のズーズーしい手」を「そういうものだ」と見過ごしてくれたら・・・
そういうことの積み重ねでもあるような気がする。

マア素人ですから、上手と言っても「ひどい手」「変な手」は有りますが、それを咎められるかどうかが問題です。
 下手は上手以上にそういう手を打つ可能性が有り、その時上手の方がそれを咎める可能性が高いのです。
 勝負はミスの回数ではなくて、決定的なミスを犯すとか、追求のチャンスを生かすというところで決まるかもしれないので、勝敗から見ると上手有利だと考えるのです。

そういうことで、上手・同格・下手などとバランスよく打つ人と、下手しか打たない人とでは、棋力のバロメーターのはずの点数が違ってくるように思います。
 本来同格の棋力の人が対局相手が先程のように両極端だったら、多分ですが表に現れる点数という表示では2子くらいに差になるかな・・・つまり15点くらい違ってきそうな気がします。 


眠れぬ夜に

2007-03-03 02:08:38 | Weblog
 実はこのタイトルは嘘っぽい。
 私は眠らなくて何かをしていたことはありますが、眠りたいのに眠れないということは記憶に無いのです。
 逆に眠ろうと思えば何処でも寝てしまいます。
  勿論運転中は眠りません・・・そうなら今頃ここには居ないはずです。
 
 タイトルを説明すると、「夜中にふと目を醒ましたら」ということです。
私などのジイサマにはよくあることで、寧ろ若者みたいに朝まで熟睡できる体力が無いということなのです。
 それでも途中で目を醒ましても「明日が大変」と焦ることも有りません。
  本を読んだり、(ここだけの話ですが)ネットで対局を観戦すれば概ね寝付くことが出来るのです。
 コツは余り面白い本は避けることでしょうね、これだと気がつくと朝になっている可能性が有ります。

ネットは24時間相手さえいれば打てる
 サンサンは殆ど国内の会員なので深夜は打つ人が少ない、タイゼムも韓国が中心だから時差はたいしたことは無いからこちらの深夜に”人通りが少ない”のです。
 この点パンダなら、時差の関係でいつでもどこかの国の人と打てる・・・但しこちらの条件さえ合えばです
  そこで、寝ないで打つとしたら何時間くらい連続して打てると思いますか?
 質問した私がやったことが無いので、”正しい”答えは知りませんが、多分まともに打てるのは72時間くらいではないだろうかと考えています。

 小説とか映画では捕まえたスパイを拷問して「眠らせない」とか「眠ったら直ぐ起こす」があるとか。
 これは精神的・心理的苦痛を掛けるから、3昼夜頑張れるかどうかは分かりませんが、遊びでは私に3昼夜の経験が有ります。
 そういえば昔「何時間起きていられるか?」というアホな番組が有りましたね
  マア私の場合は何かの目的意識があってやったわけではないのだけれど、結果的に変な実績になっているから、そういう目であの番組を見ていました。
 さて、私の場合は72時間マージャンをやってしまった。
  3日間やろうとなんて思っていませんでしたが、相手が適当に用事とか講義があったので誰かと替わったのに、私だけが替わらなかったのです。
 3度の食事は店屋物で、当然風呂は無し
  雀荘で賭けマージャンですから、これで負けたら大変ですね
   ところで、72時間頃には体調に異変が起き始めていたらしい。
 目尻から涙がぽろぽろこぼれるのです・・・だから涙の塩分で目尻が痛い
  顔から冷や汗が流れるのです、顔の表面が冷たいかな?
 顔色も相当青かったらしい。
  雀荘の婆さんのドクターストップが掛かった:「これ以上やると死ぬよ」です
そんなことで、私の経験では何とか続けられるのは72時間が限度らしい。
 それは勿論ベストコンディションという意味では有りませんで、単に”やれる”ということに過ぎないのですが

 囲碁の場合も同じだろうか・・・つまり長考しているつもりが寝ていたなんていうのも有りそう
  これはマージャンのリズムとは違うから分かりませんね。
   麻雀ではある程度スピーディーにやらないと周りからクレームが来ますしね。
 そうだ、24時間相手がいるパンダでは、時間制度が25/10などの条件があるから、基本的に長考には向いていませんから、実験には向いているかも知れません。
  誰か試したら結果を教えてください。
    勿論全敗で”只打っただけ”はダメです
   但しそれで体調を崩しても当方は責任を負いかねます。
 悪しからず!! 
  

点数差の疑念

2007-03-02 00:45:02 | Weblog
 このタイトルでは何を言いたいのかはっきりしないかも知れませんが、先日サンサンの入場者とか、対局待ちのリスト、対局者リストなど見て感じたことです。
 サンサンでは点数で打ちます。
 これは対局で勝てばその場で1点上がり負ければ1点下がる。
  それでその時の持ち点数が棋力のバロメーターということです。(一応)
 私などは高い時と低い時で上下15点くらいの幅で動いています。
  ということは、この現実を認めれば・・・棋力には幅があるということです
 
 それでも点数はある点を中心に上下する・・・ある点を中心に勝率5割で動くはずです(そういうことで成り立っているはずでしょう?)。
 さてその時の対局相手ですが、全くのアトランダムなら私も全く感じなかったかも知れませんが、人によりやや片寄りがあり・・・そこで考えたことがあるのです。
 
それはある高段の方のことです。
 以前一度だけその人と対局したことがあります・・・その時は確か私の二子局でした。
  形勢と関係なく最後まで打って、半コウも無くなったところで投了されてしまった相手です。
  それが仮にも高段者という人のやることなのかと憤慨して、その方とは以来打っていませんが、対局待ちリストではよく見かけるのです
 本人としてその件に関してなんとも思っていないのかも知れません!?
  まさかとは思いますが、例えばあるところの大会では、勝ち数が同じなら目差の大きい方の勝ちなんて言うルールを使っていたりします。
 それで中押し勝ちは20目差として計算する・・・だから20目差以上なら=中押し勝ちで、投了と同じ・・・まさか!?

 話は戻って
  その人の対局条件は「誰とでも」ですから向う九子局もOKということで、実際向う五子、六子局での対局をよく見かけます。
 確かにこの限りでは、下手の面倒見が好いとも見えることは見える・・・
(対局室には入りませんから、対局リストで見かけます)
  逆に同じくらいの点数の人とか、上手との対局は見たことが無い。
 そして以前から比べると20点くらいアップしている。
単純に考えれば「強くなった」ですが、でも・・・
 先ほど話した、点数制度ではどこかで勝率50%になるということがほんとに正しいかどうか疑問を感じた考のです。
  つまり、置き碁の下手との対局は本当に勝率50%かどうか?
   点数によるハンデ戦ですから、本来はどんな場合でも50%でなくてはいけないはずですが、本当にそうか疑問です?
  私の実感では、上手には勝ち難いけれど、下手には勝ちやすいのではないでしょうか。
 それは勝ちやすいといっても7割とか8割ではなくて、55%とかそういうレベルでしょうが・・・
  だから下手専門に打っていると、実際にはその人の指標となる点数より上に行くのではないかなと思いました。
  誰と打つかは当人の自由ではあるのですが、下手いじめで点数を稼いでいるようにも見える・・・我ながら相当しつこい!
 でも点数制度で打った場合に点数が落ち着く先は、いろんな人と対戦した場合という条件もあるのではないのかな?
  サア真実はどうだろうか?