会津の重ちゃん日記

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戊辰150年 その12

2018-06-09 18:15:05 | Weblog
2018年6月9日(土)晴 26.3℃~18.3℃
「戦場のうわさ話」

 会津若松市の県立博物館常設展示室で6月2日から7月6日まで、戊辰戦争のピックアップ展「戦場のうわさ話」が催されている。
今日9日午後1時半から担当の栗原祐斗学芸員が「戦場のうわさ話」として講演するので、題名に魅かれて聴講した。


うわさ話→資料の中では「風聞」、「風説」と記されている。貴重な情報源。
 〇 石井重右衛門の探索
  安積郡中地村検断。慶応3年12月より会津藩より「機密御用」を命じられる。慶応4年正月22日「機密探索」報告。会津藩は戊辰戦争の前半から備えていた。「奥州白河城の図」探査中に戊辰戦争勃発。戦争中も知ら価は方面を探索。絵図を多数残した。

 〇新政府軍の情報を届けた手紙
  白河から届いた手紙「風聞」
  会津藩境の防衛体制・・・大平や勢至堂、中地を重要な拠点とみなし主力部隊を配置。
  8月17日朝、会津藩大平口軍事方んもとに女性が手紙を持参。差出人は白河に住む「兼々御味方」三条屋金蔵。女性は金蔵の娘。
  金蔵は伝えた風聞は、新政府軍の人数や進軍先
  ①15日に白河を出た新政府軍は3,000人程度で、土佐・薩摩・大垣・古河等の諸藩兵で構成。長沼と御霊びつ峠方面へ
  ②15日、佐賀藩兵600人・紀州藩兵200人白河に入った。
  ③20日までには湯本に鍋島藩が到達するはなし。
  ⑤白河には徳島、紀州、佐賀、館林、黒羽、彦根、笠間藩が滞留。
   会津藩で羽情報を共有するため中地口軍事方へ回覧。いよいよ敵が来るかもしれないと考えたかも
   ※自身や娘の危険が及ぶ可能性もあるが、会津藩に情報を提供した者もいた。


 情報を制する者は戦いを制す、という言葉があるように、戊辰戦争においても情報収集が欠かせませんでした。戊辰戦争の前後、会津藩もさかんに情報を集めており、それらの情報をもとに戦っていました。
 このとき情報収集にあたったのは、藩と繋がりを持つ町村役人や商人たちでした。彼らは知人や血縁者、商売仲間といった独自のネットワークを駆使し、会津藩士たちに代わって風聞(うわさ話)や絵図などを集めて回り、報告していました。
 このように戊辰戦争は、武士身分の者だけではなく、民間の人々の力も借りながら行われていたことがわかります。このポイント展では、会津藩士にもたらされた風聞(うわさ話)や絵図等をご覧いただきます。

【主な展示資料】
・奥州白河城之図 慶応4年カ(1868) 個人蔵
・暗号 慶応4年(1868)6月24日 個人蔵
・書状(鍋島勢ほか繰込につき) 慶応4年(1868)8月16日 個人蔵
・書状(三条屋金蔵娘を遣わし注進につき) 慶応4年(1868)8月17日 個人蔵