あかない日記

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小説家 森鴎外 1

2022-07-09 | 人物忌


   名作のある風景・森鴎外「雁」 (日本経済新聞 2003/11/8)

 

 7月9日は 小説家 翻訳家 陸軍軍医の
  森 鴎外 が亡くなった鴎外忌

森鷗外(林太郎)は

1862(文久2)年1月19日
  石見国津和野町田村(現・津和野町)にて
 代々藩医の長男として生まれる。

1872(M5)年
  父と共に上京し  政府高官の親族で
    哲学者の西周(にし・あまね 1829-1897)
    宅に下宿

 官立医学校へ入学するためにドイツ語を
   学び始める。

1874(M7)年
  第一大学区医学校
  (現・東京大学医学部)予科に入学。

 入学に必要な年齢が足りず 
    14歳と偽って試験を受ける。

1877(M10)年
  本科へと進む。
 ドイツ教官からの講義を受けるかたわら

 佐藤元長(1818-1897)に師事し漢方医学
   さらに漢詩や漢文といった文学にも
   傾倒していく。
1881(M14)年
   大学を卒業。しばらくは
  父の橘井堂医院(北千住)を
    手伝っていたが
陸軍軍医副となり
    東京陸軍病院へ勤務する。

1882(M15)年
   軍医本部に配属され プロイセン王国の
  陸軍衛生制度の調査に従事。

   同時に私立東亜医学校にて
      衛生学の講義を受け持つ。

1884(M17)年
    陸軍衛生制度のさらなる調査や
  衛生学の習得のためドイツに留学

1884~87年
    ラプツィヒ大学、ドレスデンの軍医学講習会
  ミュンヘン大学、
細菌学者ロベルト・コッホの
  衛生試験所などを経て  勉学に励む。

  カールスルーエで行われた 
  第4回赤十字国際会議では
  通訳者を務め称賛された。

1888(M21)年
   プロイセン近衛歩兵第二連隊の軍医に。

  9月帰国し 陸軍軍医学舎と陸軍大学校の
  教官を兼任。

1889(M22)年
   読売新聞の付録として
 「小説論」を発表し  文学活動を開始。

1890~91(M23-24)年
  「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」など
  ドイツを舞台にした小説を

  相次いで発表し 注目を浴びる。
1894~1895(M27-28)年
  日清戦争が勃発し 
  軍医部長として駆り出される。

  終戦後は台湾にて勤務した後に帰国。
1896(M29)年
  陸軍大学校教官に再度就任。
 小池正道との共著「衛生新編」を発表。

 文芸雑誌「めざまし草」を創刊。
1899(M32)年
  陸軍軍医監に昇進。

 北九州に徴兵区をもつ第十二師団の
 軍医部長として小倉へと移る。

1902(M35)年
  荒木志げ(1880-1936)と見合い結婚。

  第一師団の軍医部長の辞令を受け
    東京に赴任。

 「めざまし草」を廃刊した後
 上田敏(1874-1916)らと「芸文」

 後に「万年艸」を創刊。
1904~1906年
    日露戦争に軍医部長として出征。

1907(M40)年
   陸軍軍医総監に昇進し
   陸軍省医務局長となる。

1909(M42)年
  文芸雑誌スバルにて
 「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」

 「青年」などを連載。
  東京帝国大学から文学博士の学位を
    授与される。

1911~18(M44-T7)年
  「雁」「鼠坂」「阿部一族」
 「山椒大夫」「高瀬舟」など
執筆。
  ゲーテなどの外国文学の翻訳も行う。

1916(T5)年
  陸軍引退。
1919~21(T8-10)年
   初代帝室美術院長(現・国立博物館長)を務める。

   次第に病状が悪化。
1922(T11)年
   腎委縮・肺結核により病死。享年60

 

               (参考:ウィキペディア)

 



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