勝連城十代目の城主になった阿麻和利は
伝承によると現在の嘉手納町屋良で生を受け
童名(幼児)は、カナ(加那)と呼ばれ
身体が弱く十歳まで歩くことができなかった
家の恥と思い父親に捨てられ
母親がガマ(洞窟)で育てたと言われている
成人になった阿麻和利は、勝連城茂知附按司に仕え
阿麻和利は知恵に優れ人望もありカリスマ性もあった
茂知附按司は色欲と酒に溺れ、悪政を行っていた
苦しむ民を思いクーデターを起こし
阿麻和利は十代目勝連按司と成ったと伝えられている
阿麻和利はその行動力によって頭角を現し
按司(領主)として、王府を脅かすほど力を持った
時の国王尚泰久は娘を百十踏揚(ももとふみあがり)を
阿麻和利の妻とした、これは政略結婚である
阿麻和利は策を謀り
中城城を攻め城主護佐丸を自害に負い込む
伝承によると阿麻和利は琉球国の統一を企てていた
ところが妻の百十踏揚の裏切りによって
王府に知られ、1458年王府軍との戦いに敗れ戦死
勝連城は廃城となる
廃城となった城内には、数多くの御嶽、御願所が存在し
現在も信仰を集めている
タマノウヂ御嶽、モートゥガー、マチダ・ナケージガー、
カンジャカー、などがある
カーとか、ガーは井戸、泉など意味し現在では拝所となっている
年中行事、祭司である旧暦元旦の初拝、ウマチー
豊年祭、麦の初穂、豊作などを
祭司職であるノロ(神女)が中心になって執り行われる
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