◆例の手帳を先生は持っていた。よく人の話に上る、あの縦長の手帳を。
もう30年ほど前になる。大学の4年生になった私は、自分の進路について積極的に迷うということもなく、しかし、漠然とした戸惑いを感じつつその時期を過していた。季節は、夏休み前あたりだったと思う。よくは覚えていない。
夏の風が吹き始める、その季節のキャンパスには、学生たちが多くたむろしていただろう。その日の講義を聞き終え、友人たちも皆、帰るかサークルか、あるいはどこかへこれから行きそうな気配だった。私は暇だった。帰ろうとしていたのかもしれない。キャンパスの中庭から南口の門へ向けて歩を進め始めた時に、当時51号館と呼んでいたのだったか、超高層の校舎の脇の辺りから、やはり真っ直ぐに南門へ向かう人の姿があった。吉阪先生だった。手に、比較的薄い、あれは何というカバンなのだろう、A3の用紙が丁度入りそうな手提げかばんを持ち、大股で歩いてゆくのだった。
私は意を決するというのでもなく、その姿を認めるや、ごく自然に追い付きそうな場所へ足早に歩き出したのだった。気が付いたらその方へ吸い寄せられるように歩いていたのである。
「先生!」
私が声を掛けると、先生は立ち止まってこちらを見た。骨太な体ではあったが、ラフなブレザーを着込んだその身体は随分と痩せているように感じた。英気は感じられたし、気はまだ充溢していたのだろうと思う。
先生はたぶん、私のような、200人もいる中の一学生は知ってはいないだろうと思い、簡単に自己紹介して、
「あの、少しお話したいことがあるのですが・・・」
と言った。
漠然とその時、自分の考えていた旅のことを話したり訊いたりしてみたかったのだったが、話した瞬間に、そのほんとにたわいもない自分の質問に気付いて、冷や汗が出そうだった。それでも、15分でも時間を取って頂けないか、というような事を言ったと思う。
先生は何も言わず、即座に胸の内ポケットから、例の縦長の手帳を取り出した。直立の姿勢だったと思う。私は突っ立ったままだった。骨ばった長い指でその手帳を数ページめくり、
「明日なら空いている、明日の10時(正確には覚えていない)に研究室に来なさい。」
少しくぐもった、野太い声でそう言った。その時の、先生の顔がどんなだったかはあまり記憶にない。落ち着いた声だったし顔も静かな顔だったように思う。目はいつもの優しい笑った目だったと思う。その時既に先生の身体はがんに侵されていただろうということは、後で振り返って私が思うことであった。先生自身がそのとき知っていたかどうか、それは分からない。以前にも増して痩せていたそうだから体調は芳しくなかったかもしれないが、歩いている時など、相変わらずの力強さだった。山で鍛えたものだろう。
少しでも時間を取ってもらえることが分かり、自分の訊きたい事のたわいのなさ、とりとめのなさは脇に置いて、翌日、伺うことにしたのだった。
翌日、私は怠惰に寝坊することもなく、比較的早くに研究室に向かったのを覚えている。柄にもなく遅れないように、時間きっかりに研究室に着く余裕をもたせたのだった。
10時に研究室のドアをノックした。外の廊下は薄暗く、ひんやりと静かで、ドアには百人町の先生の自宅の庭で撮ったという自身の写真が貼ってあった。学生か誰かが撮って貼ったものだろう。当時出入りしてした学生なら健忘症にでもならぬ限り、誰でも覚えている写真だ。庭の植え込みの前に半ズボン姿で立った、全身の写ったあの写真だ。二カッと笑って写っていたと思う(たぶんそうだったと思うが違うかもしれない)。その全身の姿は野性味があふれ、ジャングルでのハンターのようでもあった。その写真を見て皆、笑ったものだ。
(私には洋装のような記憶があった。が、少し調べてみると、和服のジンベイを着ている。半ズボンと見ようとすれば見れなくもないが、あくまでもジンベイの穿き物のようだ。ジャングルのハンターという印象も少し違っている。記憶とは曖昧なものだ。しかし、その写真である。)
ノックをし、ドアの外に佇んだが返事がなく、中から人の声がした。その声は先生の声だった。ドアは少し開いていたかもしれないし私が開けたかもしれない。とにかく、ドアの隙間から顔を覗かせるようにして中の様子を窺ったのを覚えている。
先生は電話で誰かと話していた。手には黒の受話器が握られていた。その電話の相手を叱っているのだった。むこう向きに窓の方に向かって腰掛けていた。窓側の、先生の前には幅のかなり広い木製のテーブルがあったように思う。
大きな声だったが冷静ないつもの声だった。
「・・・・・(野太い大きな声で言葉が続く)・・・。だから、・・・・・するようにと言ったんだ!」
相手は何かを了承したらしく、先生がゆっくりとダイヤル型の黒い電話の受話器を置くのが覗いていて見えた。
「こんにちは。」
なんと挨拶したか覚えていない。お早うございますだったかも知れず、おじゃましますだったかもしれない。とにかく声を掛けつつドアを開けて、中に入った。昨日の一学生との約束の時間などはもしかしたら覚えていないかもしれない、と思うくらいこちらの存在が小さく感じられた。
くるりと振り向くと(回転式の椅子だったように思う)、行儀よくきちんと両手を両ひざに置き、先生は
「はい、何でしょう?」
と言った。先程の電話の様子とは全く違ういつもの声と、愉快に笑ったようなあの目だった。やはりラフなブレザー姿だったと思う。ネクタイはもちろんその時はしていなかったと思う。していたとしても、紐のような簡便なあのネクタイだ。
それから、どのくらいしゃべったか覚えていない。10分程だったかもしれず、おそらくは2,30分くらいだったろうか。先生の前の椅子に座り、これから行きたいと思っている旅の話をした。数カ月かけてアメリカ大陸を西から東へ横断してみたい、という話をしたのだった。こちらの間の抜けた質問は、その旅の計画とも言えないような漠然とした計画について、どう思われるかという、これまた漠然としたものだった。
先生は面白そうに聞いていたが、
「よく調べてから行きなさい」
というような事を言った。いつも出たとこ勝負のような旅をするこちらの性格を見透かしているようだった。あるいは、学生とは当時、大体そんなものであったかもしれず、今から思えば先生自身もそういう旅を好むところもあったのかもしれない。
「オートバイを使いたいのですが大丈夫でしょうか?」
何を大丈夫と訊いているのか、このまたもや漠然とした私の質問に、先生は全く動じることもなく、楽しそうに、
「向こうへ行ったら、そこで中古を買えばよい」
と、いきなりその方法へ話は飛ぶのだった。
「向こうへ着いたらそこには、中古のオートバイがたくさん売っているはずだ。そこで・・・」
と言いながら、楽しそうに両手を上げてオートバイのハンドルを握るような仕草をし、スロットルをふかす真似をして
「エンジンの調子のいいやつを選べばよい」
「はあ」
「エンジンがいいかどうかは、実際にエンジンをかけて、その音を聞けば分かるだろう。よく聞いて・・・。そしていい音だと思ったらそれを買えばいい」
そう言いながらエンジンを屈んで見たり、スロットルをふかしたりする格好をするのだった。
事も無げな話に、私は、はあとはい、を繰り返していた。
それから少し話し、もともと大したことを訊くほどのもののなかった私は数十分ほどで研究室を後にした。
時間があっという間に経ち、その後しばらく精神が高揚したような気分になったことを覚えている。
(その計画はその後実現することはなく、別のいろいろな旅の計画へと変わり実現したものもある。もちろん実現していないものも。)
それから、1,2カ月ほど経った頃、4年生の、夏を過ぎた頃だったか、研究室に出入りしている私に先輩のひとりが、先生が病気だと教えてくれた。病名は分からなかったが、重いように察せられた。研究室に古くなったテレビがあり、NHKか何かで、先生の講義が毎週のように放送されていた。病気だと聞いたのに元気なのかなと思ったら、病院から抜け出してテレビ局へ駆けつけ、出演しているそうだ、とのことだった。その頃、研究室は論文などを仕上げる学生が出たり入ったりして、依然として活気があり、賑やかだった。私は他の学生と同じで何となく慌ただしく、テレビに映っている先生の講義はあまり熱心には見ていなかったように思う。その後、数カ月がたち、学生が論文などを提出する頃だったか卒計に入った頃だったか、寒い日の夜、私のところに先生が亡くなられたとの訃報が入った。 (おわり)
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