カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

drawing Dec2010

2010-12-20 | アート

drawing


drawing                                                                                       Dec2010


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ABBA  Dancing Queen(1978)
http://www.youtube.com/watch?v=XZE-j6ZWpZo

      
 

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ある日の吉阪先生のこと

2010-12-20 | エッセイ

例の手帳を先生は持っていた。よく人の話に上る、あの縦長の手帳を。
 もう30年ほど前になる。大学の4年生になった私は、自分の進路について積極的に迷うということもなく、しかし、漠然とした戸惑いを感じつつその時期を過していた。季節は、夏休み前あたりだったと思う。よくは覚えていない。
 夏の風が吹き始める、その季節のキャンパスには、学生たちが多くたむろしていただろう。その日の講義を聞き終え、友人たちも皆、帰るかサークルか、あるいはどこかへこれから行きそうな気配だった。私は暇だった。帰ろうとしていたのかもしれない。キャンパスの中庭から南口の門へ向けて歩を進め始めた時に、当時51号館と呼んでいたのだったか、超高層の校舎の脇の辺りから、やはり真っ直ぐに南門へ向かう人の姿があった。吉阪先生だった。手に、比較的薄い、あれは何というカバンなのだろう、A3の用紙が丁度入りそうな手提げかばんを持ち、大股で歩いてゆくのだった。
 私は意を決するというのでもなく、その姿を認めるや、ごく自然に追い付きそうな場所へ足早に歩き出したのだった。気が付いたらその方へ吸い寄せられるように歩いていたのである。
「先生!」
 私が声を掛けると、先生は立ち止まってこちらを見た。骨太な体ではあったが、ラフなブレザーを着込んだその身体は随分と痩せているように感じた。英気は感じられたし、気はまだ充溢していたのだろうと思う。
先生はたぶん、私のような、200人もいる中の一学生は知ってはいないだろうと思い、簡単に自己紹介して、
「あの、少しお話したいことがあるのですが・・・」
 と言った。
漠然とその時、自分の考えていた旅のことを話したり訊いたりしてみたかったのだったが、話した瞬間に、そのほんとにたわいもない自分の質問に気付いて、冷や汗が出そうだった。それでも、15分でも時間を取って頂けないか、というような事を言ったと思う。
 先生は何も言わず、即座に胸の内ポケットから、例の縦長の手帳を取り出した。直立の姿勢だったと思う。私は突っ立ったままだった。骨ばった長い指でその手帳を数ページめくり、
「明日なら空いている、明日の10時(正確には覚えていない)に研究室に来なさい。」
 少しくぐもった、野太い声でそう言った。その時の、先生の顔がどんなだったかはあまり記憶にない。落ち着いた声だったし顔も静かな顔だったように思う。目はいつもの優しい笑った目だったと思う。その時既に先生の身体はがんに侵されていただろうということは、後で振り返って私が思うことであった。先生自身がそのとき知っていたかどうか、それは分からない。以前にも増して痩せていたそうだから体調は芳しくなかったかもしれないが、歩いている時など、相変わらずの力強さだった。山で鍛えたものだろう。
 少しでも時間を取ってもらえることが分かり、自分の訊きたい事のたわいのなさ、とりとめのなさは脇に置いて、翌日、伺うことにしたのだった。
 

 翌日、私は怠惰に寝坊することもなく、比較的早くに研究室に向かったのを覚えている。柄にもなく遅れないように、時間きっかりに研究室に着く余裕をもたせたのだった。
 

                                             
 10時に研究室のドアをノックした。外の廊下は薄暗く、ひんやりと静かで、ドアには百人町の先生の自宅の庭で撮ったという自身の写真が貼ってあった。学生か誰かが撮って貼ったものだろう。当時出入りしてした学生なら健忘症にでもならぬ限り、誰でも覚えている写真だ。庭の植え込みの前に半ズボン姿で立った、全身の写ったあの写真だ。二カッと笑って写っていたと思う(たぶんそうだったと思うが違うかもしれない)。その全身の姿は野性味があふれ、ジャングルでのハンターのようでもあった。その写真を見て皆、笑ったものだ。
(私には洋装のような記憶があった。が、少し調べてみると、和服のジンベイを着ている。半ズボンと見ようとすれば見れなくもないが、あくまでもジンベイの穿き物のようだ。ジャングルのハンターという印象も少し違っている。記憶とは曖昧なものだ。しかし、その写真である。)

 ノックをし、ドアの外に佇んだが返事がなく、中から人の声がした。その声は先生の声だった。ドアは少し開いていたかもしれないし私が開けたかもしれない。とにかく、ドアの隙間から顔を覗かせるようにして中の様子を窺ったのを覚えている。
 先生は電話で誰かと話していた。手には黒の受話器が握られていた。その電話の相手を叱っているのだった。むこう向きに窓の方に向かって腰掛けていた。窓側の、先生の前には幅のかなり広い木製のテーブルがあったように思う。
 大きな声だったが冷静ないつもの声だった。
「・・・・・(野太い大きな声で言葉が続く)・・・。だから、・・・・・するようにと言ったんだ!」 
 相手は何かを了承したらしく、先生がゆっくりとダイヤル型の黒い電話の受話器を置くのが覗いていて見えた。
「こんにちは。」
 なんと挨拶したか覚えていない。お早うございますだったかも知れず、おじゃましますだったかもしれない。とにかく声を掛けつつドアを開けて、中に入った。昨日の一学生との約束の時間などはもしかしたら覚えていないかもしれない、と思うくらいこちらの存在が小さく感じられた。
 くるりと振り向くと(回転式の椅子だったように思う)、行儀よくきちんと両手を両ひざに置き、先生は
「はい、何でしょう?」
 と言った。先程の電話の様子とは全く違ういつもの声と、愉快に笑ったようなあの目だった。やはりラフなブレザー姿だったと思う。ネクタイはもちろんその時はしていなかったと思う。していたとしても、紐のような簡便なあのネクタイだ。
 それから、どのくらいしゃべったか覚えていない。10分程だったかもしれず、おそらくは2,30分くらいだったろうか。先生の前の椅子に座り、これから行きたいと思っている旅の話をした。数カ月かけてアメリカ大陸を西から東へ横断してみたい、という話をしたのだった。こちらの間の抜けた質問は、その旅の計画とも言えないような漠然とした計画について、どう思われるかという、これまた漠然としたものだった。
 先生は面白そうに聞いていたが、
「よく調べてから行きなさい」
 というような事を言った。いつも出たとこ勝負のような旅をするこちらの性格を見透かしているようだった。あるいは、学生とは当時、大体そんなものであったかもしれず、今から思えば先生自身もそういう旅を好むところもあったのかもしれない。
「オートバイを使いたいのですが大丈夫でしょうか?」
 何を大丈夫と訊いているのか、このまたもや漠然とした私の質問に、先生は全く動じることもなく、楽しそうに、
「向こうへ行ったら、そこで中古を買えばよい」
 と、いきなりその方法へ話は飛ぶのだった。
「向こうへ着いたらそこには、中古のオートバイがたくさん売っているはずだ。そこで・・・」
 と言いながら、楽しそうに両手を上げてオートバイのハンドルを握るような仕草をし、スロットルをふかす真似をして
「エンジンの調子のいいやつを選べばよい」
「はあ」
「エンジンがいいかどうかは、実際にエンジンをかけて、その音を聞けば分かるだろう。よく聞いて・・・。そしていい音だと思ったらそれを買えばいい」
 そう言いながらエンジンを屈んで見たり、スロットルをふかしたりする格好をするのだった。
 事も無げな話に、私は、はあとはい、を繰り返していた。
 それから少し話し、もともと大したことを訊くほどのもののなかった私は数十分ほどで研究室を後にした。
 時間があっという間に経ち、その後しばらく精神が高揚したような気分になったことを覚えている。


(その計画はその後実現することはなく、別のいろいろな旅の計画へと変わり実現したものもある。もちろん実現していないものも。)



 それから、1,2カ月ほど経った頃、4年生の、夏を過ぎた頃だったか、研究室に出入りしている私に先輩のひとりが、先生が病気だと教えてくれた。病名は分からなかったが、重いように察せられた。研究室に古くなったテレビがあり、NHKか何かで、先生の講義が毎週のように放送されていた。病気だと聞いたのに元気なのかなと思ったら、病院から抜け出してテレビ局へ駆けつけ、出演しているそうだ、とのことだった。その頃、研究室は論文などを仕上げる学生が出たり入ったりして、依然として活気があり、賑やかだった。私は他の学生と同じで何となく慌ただしく、テレビに映っている先生の講義はあまり熱心には見ていなかったように思う。その後、数カ月がたち、学生が論文などを提出する頃だったか卒計に入った頃だったか、寒い日の夜、私のところに先生が亡くなられたとの訃報が入った。 (おわり)



                                         


予告の関連記事:18Dec2010



                                              
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19Dec2010

2010-12-19 | エッセイ




柚子(ゆず)   自宅の庭で採れた。植物の名前をあまり知らない。
12月22日の冬至の時に柚子湯に入る予定。
今からそんな予定を決めていてどうする、と言われそうだ。




外国の人でもgooのblogを使いたい人は、当然使うことができる。
使い方が日本語で書かれているのみだから、そこが苦労するかも
しれないが、そこさえクリアできれば何も問題ない。
この国のソフトの特徴で、絵文字は簡単でかつ、いいものが多い。
もちろん、どの国のどのソフトを使ってもかまわない。




今日は日曜日だ。昨夜は本当に冷え込んだ。足にひび割れができそうだ。
鼻水も出た。耳鳴り強し。
吸血(採血)検査は、結果がコレステロールの増加という渋い結果となった。
コレステロールの多い血は、吸血鬼にとって旨いのだろうか。
(検査結果を人前で書いてどうする)
医者が異っていて、以前痛風を起こしたことをその医者に言うのを忘れている。
(だんだんとtwitter的物言いになってきた)
コレステロールが増えやすい体質だ。医者は、私もそうなんですよと言って
笑っているが、医者の方は体重増加の心配はあまりなさそうに見える。
運動で体重を落としてください、とのことだった。
アイ・アイ・サー

運動に
ブートキャンプダンスでもやるか。
床が抜けない程度に・・・・・


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18Dec2010

2010-12-18 | エッセイ

吉阪隆正先生と時間として重なった日々は、私は多くない。私が大学の4年の時に先生は亡くなられたからだ。だから、全く個人的に「交差」したのは数回しかない。それでもエピソードとしてその人のことを知りたい人は多くいるだろうし、貴重かもしれないから、その時のことを短くでも書いてみたいと思う。あまり、多くは書けないし、上手くも書けないかもしれないけれど・・・・・・・

吉阪隆正という人がどういう人か知らない人は、インターネットなどで調べてみれば、いくらでも多くの人が書いていると思うから、直ぐに分かると思う。

                                                                              
                                         

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昨日、板橋駅近くを歩いた。

2010-12-18 | エッセイ

昨日は、JR板橋駅の周辺を歩いた。2,3時間程だったと思う。ガイドブックには数件のお寺が見どころとしてあげられていたが、

どれも規模は小さく、こじんまりしたものだった。石神井川に「板橋」という名の橋が架かっていて、そこが今回の歩きの一番の見どころ

と言えば見どころだった。板橋区の名の由来は、その「板橋」から来ているのだった。以前は太鼓橋だったというからもう少し見応えがあっただろう。

途中、休憩でコーヒーショップでコーヒーを飲んだ。morivaという安カフェとピコリーノというチーズケーキの旨い珈琲屋。短時間に2件も。

駅周辺の仲宿商店街や駅東側のきつね塚通りの商店街などが賑やかだった。なぜ、きつね塚というかというと、塚については、近くに古くから

地元の人が守り伝えた塚があったらしい。もの好きにも探して行ってみると、そこには今は伏見稲荷が祭られてあった。きつねについては、

その塚のあった場所にお稲荷さんを持って来て祭ったところからその名になったのだろうと想像した。あるいはきつねにまつわる

話がこのあたりに古くからあったのかもしれない。



ほぼ、歩いた時間順に並べている
駅前商店街を「板橋」へ向けて歩く

銭湯   


どういったワケが・・・





見えている橋が「板橋」  区名がこの橋から来ているとは知らなかった


板橋の下を流れる石神井川








「伏見稲荷」となっていた きつね塚通りの近く


駅東口の広場 広場のベンチに座り提灯を眺めている人たちがいた

                                         
                                           

cher-believe



                                                                                                          
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12月13日のblogについて、など

2010-12-18 | エッセイ
近代は模索と実験のそのプロセスそのものが作品となった時代である。だから突拍子のないものや必ずしも美的(何を美的というかは難しいところだが)でないものでも解釈の仕方の部分で人々に喜ばれ受け入れられたりした。つまり、そこにはテクニカルなもの、手法が魅力を持つ余地は十分にあったのだ。そしてそれは今でも、そうである。                                 


12月13日のblog:「
アンテナのことなど・今日は雨・13Dec2010」に関連して・・・。
 数日前、12月13日のblogで風捕獲器のフォトを載せた。パキスタンのハイデラバードの、ある街の風景だ。ある街の風景だと言っても私は実際にそこへ行ってみたわけではない。この書籍で知っているだけだ。もう30年近くも前になるけれどこのフォトを見て、年上の先輩か誰かが、正確には何のためのものか分からないらしい、と言っていたのをかすかに覚えている。風捕獲器というのはその後それが実際に正しいと分かったかもしれない。トマソンのような、役には立たないが造形物として魅力のある偶然にも近い産物といったものではなさそうだった。そのようには想像しなかった。
 いずれにしろ、著者もそこまで正確に各地へ行った時にフォトを撮りつつ確認したわけでもないだろうと思ったし、各地を旅してフォトを撮っている時は、ある好みの人々にそれなりの興味とかなりの賞賛とをもって迎えられる著書になるとは本人も思わなかっただろうから、それほどしつこく訊いていたわけでもないだろう、くらいに思った。それは単純な換気口とも見えるし、砂漠地帯の一角に位置するところからも、風は砂を運んで来るわけで、換気口の上の板は砂よけと受け取れなくもない。あるいはそれは火を使うときの煙突かもしれない、などとその時そんな話をしたように思う。フォトからだけならそんな想像も成り立つ。確かなところはそこに住む人に直接訊いてみれば分かっただろう。今なら比較的簡単にできるかもしれないが、当時はパキスタンってどの辺?などと言っていたくらいだ。


                                            
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人間の世界のいろいろ

2010-12-17 | エッセイ


そのディテールのちょっとした違いに、いつ気付くか、だって?
 そんなこと、オレに(あいつに)言ったって無駄さ。

ヤツを引き合いに出してお涙ちょうだいで語るのは、もう止めろ!

あの人については、やることなすこと全部イイのだよ。反対にアイツのやることはことごとく厭なのだ。

あたかもその人間であるかのように振る舞って、あるいは思わせておいて、得をしているインチキ者がいるものなのだ。

人の功績をさも自分のものであるかのようにふるまって、得をしているインチキ者もいるのだ。

人に語らせておいて、それを褒めそやし、あたかも教科書のごとく一般論として扱って利用し、喧伝し、それに当てはまらない
 人の抗議をかわそうとする者がいるのだ。

その男がやっていることを興味を持って見ている者たちの中に、どこが間違っているかということだけに関心のある人間がい
 るものなのである。

実力を発揮し始めた人間を見て(実力のない人が動き出しただけという場合は、騒々しくなり始めた、という)、その人のやっ
 ていることや認識に間違っていることがあったりすると、その事を遠巻きに面白がりながら仲良くみんなで伝えあっている人々
 がいるものなのだ。
 知らされるべき当の本人には知らされないことが多い。その本人はやりきれない気分だろう。


                                           

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drawing・Oct2010

2010-12-17 | アート

                                                        drawing・Oct2010
                                                                          
                                 (以前blogに載せたものを、加工してみた) 

                                                   

                            

                                            



                                                                                         

                                                                     上の作品の様な厚みを持ったタイル
                                   を作れたら面白いと思う

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図書館・本などのこと

2010-12-16 | エッセイ

図書館というところには常連さんがいて、毎日朝一番からいつも同じ席に腰掛け静かに本を読んでいたりする。今日も来ているのだなと思うとこちらも妙に落ち着く。
 一時期、本を連続して借り、かなりの量を読んでいたことがある。この時ほんとに腹が立ったのが、書き込み、だ。読んでいて興ざめするのだ。また自分はここまで読んだとこれ見よがしに感じることもある。どこの誰か分からないが、鉛筆、ボールペンなどで文字の横に線を引いてあったり、数文字の書き込みをしてあったりした。薄くヒョロヒョロの字で・・・。だぶん10代くらいの人間ではないかと想像する。何を考えているのだ。大体そういうことをするヤツは決まっているだろうから、一人か二人くらいのものだろう。このときは景気も悪く、関係はないかもしれないが人々の気持にもどこか投げやりだったリ荒れた感じを受けたりした時期である。気のせいか図書館にもそれが感じられた。もっとひどいのは子供向けの書籍に対する書き込みだった。鉛筆書きの線もこれ以上ないくらい強く、いたるところに引きまくられていて、子供向けの楽しげなクイズの本などは、答えの試行錯誤が殴り書きで書き込まれているのだった。クイズになりゃしない!
 さすがに図書館側も業を煮やしたらしく、図書館の入り口に、注意の貼り紙とともにそれら書籍を展示し、来館者全員に起きていることを知らせるに及んで、やっと止んだようだった。図書館で借りた本は自分のものだとでも親から教えられているのか。しかし、こういうことでも言うと、もっとビシビシ言ってくれなくちゃとばかりにますます図に乗ってやる馬鹿がいたりするのだ。
 最近、図書館へはあまり行かなくなった。

(追記:誤解のないように付け加えておきたいと思いました。当時、そういった書き込みをされた書籍は数冊の単位ではなく、私が借りたものだけでも、その片っ端から何十冊にも及びました。見るのも嫌になって借りるのを一時中断したくらいです。図書館全体ではどれぐらいの数になったかは想像はつきません。盗難に合い、どこかで売り飛ばされる本も急増していると聞きました。)



「行間を読め!」という声が聞こえる。(まあ、実際に聞こえるわけではない。たまたまラジオで話している男が、別の脈絡でそう言っているのがそこだけ強調されて耳に入っただけのこと)

それで丁度本を読んでいたので(もちろん私の本だ)、行間に目を凝らしてみるとそこには空白の白い紙の部分があるだけなのだ。なにも書いていないので読めない。それでも「行間を読め!」ということなので、諦めず次のページをめくると、なんと読めるのだった。

その行間には、グニャグニャの鉛筆書きの文字が実際に書かれてあったのだ。私のメモ書きだった。私は私のメモ書きに救われた。行間をも読めないやつ、と言われることもない。立派に行間を読める人間となった。


                                              

ライトニンのいい感じが出ている
ピアノもいい
Take it Easy




                                              
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国立新美術館に絵画展を観にいったときのこと

2010-12-14 | エッセイ
数ヶ月前のことになるが、国立新美術館にオルセー美術館展を観に行ったことがある。六本木近くにある。正確には地下鉄乃木坂の駅に近く私はよくそこを利用する。その時は主に印象派の絵を持って来ていて絵画展そのものは十分に楽しめた。美術館の建築の方の設計は黒川紀章、日本設計。行ってみていつも思うのはエントランスを入ったところの片面ガラスの吹き抜け空間が巨大だなということなのである。外部から見てもそのガラスの壁面の大きさは半端じゃない。いいと思わないのだ。巨大だから、ではない。それまで経験した美術館、例えば、世田谷美術館などと比べると、空間の取り方が大味な感じなのだ。スケール感がまるで違う感じを受ける。これは東京ミッドタウンを歩いた時もそう感じたし、以前にblogに載せたビッグサイトの時も似た感じを受けた。中では国立新美術館はまだいろいろと設計に手をかけている方だとは思う。でも、大味でその内部の吹き抜け部分を歩いていると何処か心もとない。巨大空間に対する免疫がないということなのかな、免疫ができるまで慣れないといけないのかなと思ったりするのだがそういうことでもなさそうだ。そのオルセー展には人気が集中し、外で待つ人が多く50分待ちくらいはまだいい方だったようだが、そのくらい多くの人がその吹き抜けのエントランスホールにたむろして、やっとこのくらいのスペースは必要なのかなと理解できるのだった。必要というのは広さとして、機能として必要という意味であって、空間の間の様なものではなく、そこはやはり広く大味で面積だけは確保したという感じがして、日本人というのはこういった巨大スペースはあまり造り方も上手くないし、使い方も慣れていないのではと思ったりした。ダイナミックで巨大だが大味にならないというのもあるはずだと思うのだ。
 このように相当な費用をつぎ込んで巨大な構築物を無造作に造っているという印象を受けたのはこれが初めてではなく、過去のある日のことがはっきりと思い浮かべられるのだった。個人的な感想に過ぎないと言われてしまえばそれまでなのだが、それは、Jリーグが発足し、全国各地にサッカースタジアムが乱立し始めた頃と時を同じくする。そのころ、サッカーの試合観戦に、例えば新しくできたと宣伝されていた横浜のスタジアムを訪れた時などがそれだ。外観の巨大な量塊としてのコンクリートが無造作で、それまで観た建築、特に日本の建築とは異質なものを感じたのである。決して良い印象ではなかった。それまでのスケール感を打ち破ったと言えば格好は良いが、実態はとても良いものとは私には思えなかったのだ。スタジアムというのは規模や使い方によっては観戦機能などのほかに観客席の下に入れ込む機能が思いのほか少なかったりするもので、それらをいいことに、無造作なメガストラクチャーまかり通る、といったような造り方をしたその始めの頃だったのではないかと思うのだ。誰かが一つやれば、この国の国民性で後は何も考えず前例があるからという理由をつけて怒涛のごとく乱立したのだろうと思う。あの頃から、違う機能の特に公共的な比較的大きな建築物にもそういった傾向が見られるようになった。テクスチャーも巨大でのっぺりとした大味なものであっても気にならないようなのである。国立新美術館もそういったものと共通のものを感じるのだ。
 ところで、にわか仕込みで調べてみると、この国立新美術館はコンセプトが「森の中の美術館」ということだそうだが、どこが森の中なのかさっぱり分からない。近くに桜で有名な青山墓地、青山公園などがあるが、まさかあれに頼ったもの言いなのだろうか、と茫然とするのである。


                                           
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