震災から3年が経った。
あのとき、たまたま一家4人が在宅しており、大学入学を控えた長女の入学式のためのスーツを見に行こうと玄関を出たところで揺れに見舞われた。
その後は、テレビに映し出される津波の被害を、ただ放心状態で眺めるのみ。
3日後の3月14日、午前11時01分、フクイチ3号機の爆発する映像をみて全身が震えた。核爆発を心配した私は即座に家族を招集し、車に水、食料ほか、思い付くものを乗せて、とにかく西へ逃げた。
辿り着いた地は、静岡の清水。
港を見下ろすホテルの9階に宿泊。そして、翌日の夜、次の宿泊先を検討している最中、静岡東部地震に遭遇。富士宮では震度6、清水は震度4とのことだったが、9階なので体感としては恐ろしい揺れであった。
ここで、家内にも娘2人にも帰りたいと懇願され、自宅に戻った。家内は病み上がりで長旅には耐えられる身体でなく、中学三年生の次女は部活の送別会と卒業式を目前に控えており、情に負けたのだ。
爆発後の数日間、東京の放射線量がとんでもなかったと知ったのは随分後のこと。あと1週間でも避難を続けていれば、最低限の被曝は避けられたのに、と思っても後の祭りである。
先日、その次女が先日高校の卒業式を迎えた。壇上で卒業生代表の挨拶をしたのが、双葉町の出身者。被災直後の上京、そして、今も戻れぬ自宅。その生の声が大きく胸に迫った。
あのとき、たまたま一家4人が在宅しており、大学入学を控えた長女の入学式のためのスーツを見に行こうと玄関を出たところで揺れに見舞われた。
その後は、テレビに映し出される津波の被害を、ただ放心状態で眺めるのみ。
3日後の3月14日、午前11時01分、フクイチ3号機の爆発する映像をみて全身が震えた。核爆発を心配した私は即座に家族を招集し、車に水、食料ほか、思い付くものを乗せて、とにかく西へ逃げた。
辿り着いた地は、静岡の清水。
港を見下ろすホテルの9階に宿泊。そして、翌日の夜、次の宿泊先を検討している最中、静岡東部地震に遭遇。富士宮では震度6、清水は震度4とのことだったが、9階なので体感としては恐ろしい揺れであった。
ここで、家内にも娘2人にも帰りたいと懇願され、自宅に戻った。家内は病み上がりで長旅には耐えられる身体でなく、中学三年生の次女は部活の送別会と卒業式を目前に控えており、情に負けたのだ。
爆発後の数日間、東京の放射線量がとんでもなかったと知ったのは随分後のこと。あと1週間でも避難を続けていれば、最低限の被曝は避けられたのに、と思っても後の祭りである。
先日、その次女が先日高校の卒業式を迎えた。壇上で卒業生代表の挨拶をしたのが、双葉町の出身者。被災直後の上京、そして、今も戻れぬ自宅。その生の声が大きく胸に迫った。