福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

クリスティ&レザール・フロリサンを21年ぶりに聴く

2016-10-13 23:41:24 | コンサート

クリスティ&レザール・フロリサンの実演をはじめて聴いたのは、彼らの初来日、1995年11月、三鷹芸術劇場においてである。

パーセル:歌劇「妖精の女王」とM.シャルパンティエ:歌劇「病は気から」の2演目で、いずれもコンサート形式であった。もう細部は記憶していないけれども、その清新で生き生きとした音楽による心沸き立つ感動だけは未だに心に残っている。ついでにもうひとつ覚えているのは、ホールのレストランで食べたピラフにまったく味がなかったこと。塩を入れ忘れたのではないか? と同行した友人と語り合ったものである。

まあ、塩加減の話はどうでもよい。

その後、クリスティ&レザール・フロリサンは、2003年と2006年にも来日したようだが、それは聴いていないから、今宵は21年ぶりの再会ということになる。

客の入りはザッと見渡して、4割程度だったろうか? 

いかにも空席が目立ったのは、下記のようなプログラムが予告されていたため、ただ単に歌手たちがアリアを披露する音楽会と認識されたためではなかろうか? そうだとすれば、知名度の高いスター歌手がいるわけではないし、かといって、オラトリオや受難曲をじっくり聴けるわけでもない、ということで、チケットが売れなかったのもやむを得まい。かくいうわたしも、コンサートのコンセプトなどは何も知らないまま客席に着いたのだが、いざ始まってみると、実に知的で、愉快な音楽ショーだったのだ。

つまり、ストラデッラ、ヘンデル、ヴィヴァルディ、チマローザ、モーツァルト、ハイドンなどのアリアや重唱を繋ぎながら、二部構成のドラマとして再創造されていたのである。この辺り、宣伝の段階でもっと内容の面白さをアピールできれば、もう少し違っていたのではなかろうか?

レザール・フロリサンのアンサンブルは美しい。

弦五部は4-4-3-3-2、管はオーボエとトラヴェルソが各2、それにチェンバロというシンプルな編成なのだが、ピリオド楽器としては、しなやかでありながらも、重厚感のあるサウンドで、その低音がズシンと腸に響いてくる。

6人の歌手たちも、1人1人の技量が優れているだけでなく、アンサンブルのバランスが絶妙で、そのハーモニーの美しさは「まさにこれ、これです。こういうハーモニーが欲しいのです」と我がすべての合唱団員に伝えたい衝動に駆られるほど。

さらに、クリスティの指揮にも魅せられた。まったく、虚飾のない運動なのだが、その指、腕、全身から音楽の波が生み出され、それがオーケストラや歌手たちに伝播してゆく様は壮観。「まさにこれ、こういう指揮者にならなくては」と自分に言い聞かせたものである。

ひとつだけ難を言えば、サントリーホールという器は、彼らには些か大きすぎた。

「せめて、オペラシティだったら良かったのに・・・」とは、休憩時間に聞こえてきた女性たちの会話だが、思わず頷いてしまった。さらに紀尾井ホールくらいの規模であれば、彼らはもっと楽に歌い演じられたはずで、客席からもより細やかなニュアンスを受け取ることが出来たに違いない。

しかし、この演奏会が感動的であったことに間違いない。

彼らのアジア・ツアーはこのあと、ソウル~上海~マカオとつづくが、日本での公演は一夜のみ。この稀少な機会に立ち会えたことを幸運に思う。

ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン 
<イタリアの庭で~愛のアカデミア>
日時
2016年10月13日(木) 19:00 開演
指揮
ウィリアム・クリスティ
出演
ソプラノ:ルシア・マルティン=カルトン
メゾソプラノ:レア・デザンドレ
カウンターテナー:カルロ・ヴィストリ
テノール:ニコラス・スコット
バリトン:レナート・ドルチーニ
バス:ジョン・テイラー・ウォード
オーケストラ:レザール・フロリサン
  • ストラデッラ: カンタータ『アマンティ・オーラ』から
  • ヘンデル: オペラ『オルランド』/オラトリオ『時と真理の勝利』から
  • ヴィヴァルディ: オペラ『オルランド・フリオーソ』/『離宮のオットー大帝』から
  • チマローザ: オペラ『みじめな劇場支配人』から
  • サッロ: オペラ『カナリー劇場支配人』から
  • モーツァルト: バスとオーケストラのためのアリエッタ『御手に口づけすれば』
  • ハイドン: オペラ『歌姫』/『騎士オルランド』から、他

アーノンクールを聴いてベームを懐かしむ

2016-10-13 18:07:01 | レコード、オーディオ


これまた、購入したまま未開封だったアーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのモーツァルト「三大交響曲」のLPセットより「ジュピター」に針を下ろした。

なんというか、物凄い残響である。どこか教会か石造りの広間での録音だろうか? そんな筈はあるまい。と訝ってクレジットをみると、案の定ムジークフェラインザールとある。

あのホールでは様々な座席でオーケストラの公演を聴き、また勿体なくも指揮台に立たせて頂いたこともあるので断言するが、このようなライヴな響きのする空間ではない。とすると、電気的なエコーであろうか? ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの音がもともと薄っぺらなところに、こんなにエコーを付加してしまっては、音の実態がなくなってしまう。



アーノンクールの音楽づくり自体も、恣意的なアーティキュレーションや癖のある装飾音、極端なレガートや唐突な強打などによって、素直に心に入ってこない。それがアーノンクールだと言われればそれまでなのだが、トスカニーニの録音並とは言わずとも、もう少し残響のないサウンドなら、もう少し楽しめたかもしれない。

そんなとき、無性にベームのモーツァルトが聴きたくなった。それも定評あるベルリン・フィル盤ではなく、マニアに人気のコンセルトヘボウ管とのモノーラル盤でもなく、どちらかというと評価の低い晩年のウィーン・フィル盤である。

実はわたしはこの演奏、かなり好きである。どこまでも普通の表現で、聴きながらハッとするようなところはない。その点、宇野功芳先生がこの演奏を凡庸なものとして酷評していた理由はよく分かる。

しかし、普通がどれほど尊いことか。フレーズは歌われるべく歌われ、アクセントはこれ以外ない加減で付され、各楽器のバランスも絶妙、和声の移り変わりにはこうでなければという色合いの変化を見せる。テンポを緩めたり、引き締めたりといった塩梅がまた心憎いばかり。メヌエットこそ、舞踊と呼ぶには異様なテンポの遅さを感じさせるものの、これほどオーソドックスの極みと思われる演奏は少なかろう。

普通のことを普通にやる凄み!

ベームとウィーン・フィルによる「ジュピター」の録音はそのことをわたしに教えてくれる。その高貴な普通を前にして、いまわたしは畏れにも似た感動を味わっている。