福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

アーノンクールを聴いてベームを懐かしむ

2016-10-13 18:07:01 | レコード、オーディオ


これまた、購入したまま未開封だったアーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのモーツァルト「三大交響曲」のLPセットより「ジュピター」に針を下ろした。

なんというか、物凄い残響である。どこか教会か石造りの広間での録音だろうか? そんな筈はあるまい。と訝ってクレジットをみると、案の定ムジークフェラインザールとある。

あのホールでは様々な座席でオーケストラの公演を聴き、また勿体なくも指揮台に立たせて頂いたこともあるので断言するが、このようなライヴな響きのする空間ではない。とすると、電気的なエコーであろうか? ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの音がもともと薄っぺらなところに、こんなにエコーを付加してしまっては、音の実態がなくなってしまう。



アーノンクールの音楽づくり自体も、恣意的なアーティキュレーションや癖のある装飾音、極端なレガートや唐突な強打などによって、素直に心に入ってこない。それがアーノンクールだと言われればそれまでなのだが、トスカニーニの録音並とは言わずとも、もう少し残響のないサウンドなら、もう少し楽しめたかもしれない。

そんなとき、無性にベームのモーツァルトが聴きたくなった。それも定評あるベルリン・フィル盤ではなく、マニアに人気のコンセルトヘボウ管とのモノーラル盤でもなく、どちらかというと評価の低い晩年のウィーン・フィル盤である。

実はわたしはこの演奏、かなり好きである。どこまでも普通の表現で、聴きながらハッとするようなところはない。その点、宇野功芳先生がこの演奏を凡庸なものとして酷評していた理由はよく分かる。

しかし、普通がどれほど尊いことか。フレーズは歌われるべく歌われ、アクセントはこれ以外ない加減で付され、各楽器のバランスも絶妙、和声の移り変わりにはこうでなければという色合いの変化を見せる。テンポを緩めたり、引き締めたりといった塩梅がまた心憎いばかり。メヌエットこそ、舞踊と呼ぶには異様なテンポの遅さを感じさせるものの、これほどオーソドックスの極みと思われる演奏は少なかろう。

普通のことを普通にやる凄み!

ベームとウィーン・フィルによる「ジュピター」の録音はそのことをわたしに教えてくれる。その高貴な普通を前にして、いまわたしは畏れにも似た感動を味わっている。


井上陽水コンサート2016秋「UNITED COVER 2」

2016-10-11 22:57:15 | コンサート

井上陽水は、中学生時代に「氷の世界」「二色の独楽」ふたつのアルバムを聴いてから、いつもボクの人生の近くにある存在だったが、その生のステージに接するのははじめてである。

だいたい、ぼくらの世代で、フォークギターを弾くのに、最初にさらう曲は「夢の中へ」と相場が決まっていたものだ。

この度、オーチャードホールに出掛けたのは、せっかくこの天才アーチストと同じ時代に生きていながら、これまで一度もコンサートに足を運んでいなかったことを反省してのこと。

陽水の声は健在で、力の抜けたトークも絶妙。曲も名曲揃いなのだから、感動しないはずはない。実際、大いに愉しんだことは事実であるが、それでも魂を揺さぶられるほどの感動、とまでは至らなかった。

その理由は簡単だ。

バックのバンドの音量が上がると、歌詞がまったく聞き取れないのである。特にバスドラムとベースの音がウワンウワンとループしてしまい、陽水のヴォーカルを打ち消していた。あの独特の感性による詩あってこその陽水の世界なのであって、それが聞こえないのでは魅力が半減してしまう。昨年、同じホールでZAZを聴いたときには覚えなかった不満である。

「今日のお客さんは静かですね」と陽水は語っていたが、コンサートの序盤で聴衆がいまいち盛り上がれなかったのも、おそらく歌詞が聞こえないことに関連していよう。

確かに、オーチャードホールはクラシックのコンサート向き(とはいえ、クラシックを聴くには音が悪い)のため、一般の多目的ホールよりは残響が多くポピュラー音楽の音作りは難しいのかもしれない。しかし、もっと各マイクのリバーブをカットするなど、ホールに適したサウンド作りは出来なかったのかという恨みは残る。PA技師の居る位置が1階席の一番奥、即ち2階席の真下のため、前方席よりは残響がなく、そのことに気付かなかったのか? それとも、あのあたりが限界だったのか? それはボクには分からないのだが・・・。

本日の公演は別としても、日本のポピュラーコンサートでは、PAの音質には疑問を覚えることが多い。

もっと音量を絞って、音質に気を使ってほしい、というケースがままるのだ。音が大きなだけでなく、歪んだり汚れていることも多い。

ヴォーカルへのリバーブのかけ過ぎも、下手な歌手にはよいが、上手い歌手にはその美点をぼやけさせて逆効果だったりする。

数年前、くるりをライヴハウスに観に行ったときなど、あまりの音量の大きさに耳がボーッとなり、三日ほど聴力の戻らなかったことがある。これには焦った。自分の仕事に関わるので、それ以降、ライヴハウスでのイベントへは怖くて行けないでいるほどだ。ライヴハウスのスタッフは、毎日毎晩、大音量の中にいて難聴になっているに違いない。

音響スタッフには、もっと「良い音とは何か?」を学んで欲しいと願う次第である。

 

 


カラヤンのシベリウスにアナログ録音の凄みを聴く

2016-10-11 17:06:40 | レコード、オーディオ


久しぶりの在宅に、買ったまま放置されていたレコードを聴く。まずはレオニード・コーガンの1982年シャンゼリゼ劇場ライヴ。未公開録音による新譜である。

シューベルト、ブラームスも文句なしに素晴らしいが、入魂のバッハ:シャコンヌを経た後のパガニーニ、ファリャ、プロコフィエフに於ける突き抜けた世界に魅了された。

アナログ再興初期には色々問題のあった東洋化成プレスも安定してきたような気がする。

LP 1(Side A)
シューベルト:ヴァイオリン・ソナチネ第3番ト短調 D.408
LP 1(Side B)
シューベルト:幻想曲 D.934
LP 2(Side A)
ブラームス:スケルツォ
J.S.バッハ:シャコンヌ(無伴奏パルティータ第2番ニ短調BWV1004より)
LP 2(Side B)
パガニーニ:カンタービレ
ファリャ(コハンスキー編):スペイン民謡組曲、
プロコフィエフ:仮面~『ロメオとジュリエット』より

レオニード・コーガン(ヴァイオリン)
ニーナ・コーガン(ピアノ)

ライヴ録音:1982年10月20日/シャンゼリゼ劇場、パリ(ステレオ)
INA(フランス国立アーカイヴ)からの音源提供

(2LP)180g 重量盤/完全限定プレス/ステレオ/日本語解説付



つづいて、ヤンソンス&VPOの2016ニューイヤーコンサートに針を下ろすが、途中で飽きてしまう。どこまでも音楽的なのだけれど、微温的でどうにも心が震えてこない。

ヤンソンスへの物足りなさ。この春、ベルリン・フィルで聴いたときの初日の印象が蘇る。しかし、アルバムの2枚目、3枚目は未聴のため、結論は保留にする。後半の巻き返しはあるかも知れない。



カラヤン&BPOによるシベリウス「フィンランディア」の快演(怪演?)は、その欲求不満を晴らしてくれた。悪趣味なまでにバリバリと吼える金管群にゴリゴリと鳴りまくる低弦。これでどうだ!と威嚇するようなティンパニの轟き。

いやあ、スカッとした。
しかし、このアルバムの良さは豪快さだけにあらず。「エン・サガ」での精妙なアンサンブルは清涼剤となり、トゥネオラの白鳥のコール・アングレのソロ(ゲルハルト・シュテンプニク)はまさに人生の憂愁の極み。

30年前のボクなら、このフォルティシモを無意味なもの、空虚なものとして、受け入れなかったも知れない。しかし、いまは大歓迎だ。何事もここまで徹底されれば、尊敬に値する。もっとも、これをブルックナーでやられたらひとたまりもないのだが。

音もデジタル最新録音のヤンソンスより、アナログ成熟期のカラヤン(英EMI 白黒切手レーベル)が文句なしに良い。
音質には不利な筈の4チャンネル用プレスにも関わらず、こんなに差がつくとは、アナログ録音の凄さに改めて驚かされた。

覚え書 バッティストーニの指揮

2016-10-10 01:07:39 | コーラス、オーケストラ


自分が忘れないための覚え書。

「題名のない音楽会」で観たバッティストーニ。

無尽蔵のエネルギーとアクティブな指揮ぶりにばかりが注目されがちだが、それだけではない。

その運動だけをみても、多くの日本人指揮者に欠けているものを持っている。

肩甲骨からのしなやかで柔軟性な腕の動き。懐の深さも半端ではない。

たっぷり酸素を補給しながらの運動なので、疲れを知らず、一点へではない広範な視野への同時進行的な集中力を有する。

起伏の激しい情感に運動がシンクロし、カンタービレの波が全身から溢れでて枯れることがない。

とかく、日本には肩から先の腕だけで振る指揮者が多すぎるのだ。打点ばかりに気を取られ、呼吸や歌のない指揮も多い。

バッティストーニの棒から生まれる巨大な音楽が、ただ、恵まれた肉体やアクションの破天荒さに起因すると思ったら大間違いである。

いまにして冷静に

2016-10-09 23:31:29 | コーラス、オーケストラ


本日の女声合唱団 KIBIは、中国コンクール後、最初のレッスンでした。コンクール前は緊張した時間が長らくつづいたので、今日は技術的には平易な瑞慶覧尚子「ぎんいろ じかん」を楽しみつつ合わせることに。演奏時間最短1分から最長でも2分という10の小品からなる作品で、くどうなおこの詩が、楽しく、切なく、優しく、深く、夢があり、指揮をしながら幸せを感じます。「やさしい二部合唱曲」ではあるにしろ、レッスン初日で1冊通せたことを歓んだ次第。

さて、合唱コンクールの写真が届いていましたが、今にして冷静に客観的に振り返ることができます。コンクール当日までのプロセスや本番の悔しさを通して、女声合唱団 KIBIは、ただの仲好しグループに終わらないホンモノの合唱団になったのだなぁ、と実感しています。一度理想を目指すことに魂を燃やしてしまうと、最早昔の気楽さには戻れないのですね。

写真には「岡山県代表」の文字がありますが、まだまだ実力の伴っていなかったことを団員たちは自覚していることでしょう。次の機会には真の意味で代表として胸を張れるようになりたい。その境地に導きたいと決意を新たにしているところです。

リスト十字架合唱団の美しい時間

2016-10-07 12:58:50 | コーラス、オーケストラ

昨夜、チケットを購入してあったパーヴォ・ヤルヴィ&N響のマーラー「3番」を諦めた理由はこれです。

リスト十字架合唱団のレッスン。

もともとはわたしのミスから、パーヴォの演奏会日を手帳に書き損じたがゆえに入れてしまった予定ですが、レッスンの充実と作品の素晴らしさに後悔はありませんでした。

まこと、虚飾のない、厳しくも美しい音楽です。

期間限定、レッスン回数も限定されていますので、実力派男子のご参加をお待ちしております。

以下、団員Oさんの言葉を転載しておきます。

「昨日はリスト十字架合唱団の練習でした(*'▽'*)

まだ数回しか練習してませんが、回を重ねるごとに、福島先生のご指導がより綿密に深くなっていってます(*´ω`*)すばらすぃ♪
そして小沢先生のオルガンで練習というのも贅沢です〜💕
これ、少人数で独り占め(1人じゃないけどそんな感じ)です!

月に1〜2回で2時間という少ない練習時間ですが、私にはとっても貴重で大切な時間となっています(*^^*)

だんだんメンバーも増え、17人に!
昨日はテノールのイクメンSさんが参加してくださって本当に嬉しいです!
あとはバス…(*_*)
バスバスバスーーーー!

そこの男前な声のバスの方、参加お待ちしておりまーす!
次の練習は10/20木曜日ですよ(о´∀`о)」


ネヴィル・マリナーの死を悼む

2016-10-04 16:36:44 | レコード、オーディオ


 ネヴィル・マリナーの名前を知ったのは、1974年11月2日のことである。なぜ、そう言い切れるのかというと、その日は日米野球第6戦、全日本vsニューヨーク・メッツ戦の試合前にハンク・アーロンと王貞治によるホームラン競争が行われた日だからである。

 当時小学校6年生だったわたしは、すでに社会人になっていた従兄弟の勉兄さんに連れられて後楽園球場に行った。そして、バックネット裏の座席にて、その歴史的セレモニーに立ち会ったのだ。
 
全日本対メッツの試合については何の記憶もない。ただ水道橋からの帰り道、たしか新宿のレコード屋に立ち寄ったとき、勉兄さんがレコードを買ってくれたことは忘れることはない。その1枚こそネヴィル・マリナー指揮のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」だったのである。ただし、全曲ではなく3番、4番、5番を納めた国内盤であった。

 もちろん、これはマリナーの古い方の録音で、サーストン・ダート博士校訂譜によるもの。第3番に第2楽章があったり、第4番では2本のリコーダーに通常のアルトより1オクターヴ高いソプラニーノが用いられたり、第5番の第1楽章では聴きどころであるべきチェンバロのカデンツァが異様に短かったりするなど、一風変わったものなのである。しかし、それがわたしの最初のレコードにおける「ブランデンブルク協奏曲」体験となった。ついでながら、4番の第1ソプラニーノ・リコーダーを受け持つのが、天才デイヴィド・マンロウであることを認識したのはずいぶん後のことである。



さて、それから32年後の10月2日のこと。大阪フィル「海道東征」合わせ前の僅かな時間に飛び込んだディスクユニオン大阪クラシック館にて購入したのがマリナー指揮のバッハ: ロ短調ミサ(蘭フィリップス 3LP)。

試聴して、その清新にして溌剌とした音楽運びに、こんなに凄い演奏だったのか! とその実力を再認識。良いレコードが買えたと嬉々として大阪フィル会館に向かったのである。92歳の巨匠の訃報が飛び込んできたのは、まさにその時だった。

この4月、オペラシティ・タケミツホールで聴いたプロコフィエフ: 古典交響曲、ヴォーン=ウィリアムズ: トマス・タリスの主題による変奏曲、ベートーヴェン: 交響曲第7番は、マリナーの師ピエール・モントゥーの音楽を彷彿とさせる真の巨匠の指揮ぶりだった。

もちろん、モントゥーの指揮姿を生で見たワケではないのだけれど、老境において若々しい音楽、洗練された趣味と格調の高さ、そして背中の語る人間の暖かさと大きさがモントゥーを思わせたのだった。

マリナーについては、N響ほかへの客演指揮を聴き損ねたことは悔やまれるが、たった一度でもその実演に触れたことの幸せを噛みしめている。

どうぞ安らかにお眠りください。

♪上の写真は、ロ短調ミサのレコード付属のブックレットより。

 
 
 
 
 
 


海道東征に大阪フィル合唱団の成長を感じる

2016-10-04 00:04:32 | コンサート


二年目の「海道東征」終わりました。

ちょうど一年を置いての同曲再演ということで、大阪フィルハーモニー合唱団の成長の跡を確認できたのは嬉しいことです。

今回、日本語の発音の明晰さと声の響きの豊さを両立させる、という目標はかなりのレベルで達成されていたと思います。また、声楽的な難所に力むことなく自然体で臨むこともできるようになってきました。これらに関しては客席で聴きながら、大いに誇りに思ったものです。

そして、これまで地道に作り上げてきた音楽づくりによって、良い意味でマエストロの棒を超えていけたのも、結果としてはOKだったかな?

また、ここには敢えて書きませんが、今後の大阪フィル合唱団が、何を克服してゆくべきか? という課題も明確に見えてきました。その長期的課題を頭の片隅に起きつつ、次回からはブラームス「運命の歌」の稽古に入ります。シモーネ・ヤングとの出会いも楽しみなところです。

さて、「海道東征」に三年目はあるのか?

今宵、合唱団の成長に確かな手応えを感じつつも、いずれは、わたし自身の思い描く「海道東征」を世に問う機会を一度でも与えていただけたら、と切に願っているところです。








モネのような音楽を

2016-10-01 10:11:30 | 美術


 アサヒビール大山崎山荘美術館は開館20周年というから、いまモーツァルト「レクイエム」を稽古している長岡リリックホールと同い年だ。



 その記念の年に”モネ展~うつくしいくらし、あたらしい響き”が開催されている(前期:9月17日~10月30日、後期:11月1日~12月11日)。
 もともと5点の睡蓮をはじめモネ作品の所蔵で名を知られる美術館であるが、そこに神奈川(箱根)、姫路、山形、群馬、茨城、埼玉、三重、福島など各地からの名品が集った。点数こそ20点(うち1点は前期のみ、2点は後期のみ)だが、数がありすぎるよりも、この程度の方が、一作ごとへの対話がじっくりできて良いような気がする。



 今回、わたしが惹かれたのは、円熟期に描かれた睡蓮よりも、30から40代の頃の作品たちである。
 すなわち、「貨物列車」(1872年・32歳)、「ル・プティ・ジュヌヴィリエにて、日の入り」(1874年・34歳)、「モンソー公園」(1876年・36歳)、「菫の花束を持つカミーユ・モネ」(1876-77年頃)、少し置いて、「サンジェルマンの森の中で」(1882年・42歳)。











 今回は、普段敬遠している図録を手にした。印刷された作品の印象が本物に遠く及ばないのは仕方ない。ことにモネが己が絵に定着させた目映いばかりの光彩の再現など望むべくもない。しかし、昨日ばかりは「いま心に感じた感動を記憶に定着させよう」という目的を持って手にすることにした。さらに、作品ごとに付された小さな解説が興味の糸を広げ、記憶の手助けとなることを願って。
 要は、自分のイマジネーションにあり、この図録を手繰りつつ、脳内にこの目で見た本物の質感を再現させれば良い。不完全なライヴ音源から、実演の素晴らしさを脳内で再創造する作業にも似ていようか。



 モネがキャンバスに封じ込めた黄金の構図、眺めれば気の遠くなるようなきらめく光の粒たちの舞踊、そして幾重にも織りなったり溶け合ったりする鮮やかな色彩。
 
 このように艶やかに美しい音楽を奏でたい、といま心が囁いている。