浜松・大空襲
六月中旬になると、思い出します。
当時小学6年生。
6月17日の深夜、・・「警戒警報」・・
毎度のことなので、慌てず家の中の防空壕へ。
束の間・・「空襲警報」・・
何時もと違う。子ども心に・・緊張感・・
隣組で作った防空壕(公園内・自宅から5~6分)に行きましょう。・・母。
幸いな事に、海軍工廠に徴用されていた父が、
週末で帰宅していた。
お前たち早く避難しろ!(母と子供3人。・・一人は母の背に)
家の前は2車線道路。
30m先の角を曲がって防空壕に行く道がある。
1車線の小路には、既に焼夷弾の火の海。 こわ~い
自宅に引き返したら、避難する父と鉢合わせ。
父の判断で、500m先の「射撃訓練場」へ。
道路は2車線。まだ焼夷弾の洗礼ナシ。
・父と姉が先頭・
フト気がつくと、姉が持参して居たはずの我が家の貴重品袋が道路に・・・
偶然にも私が見つけた。 父と姉の姿が前方に見えない。
母と手をつないでいたすぐ目の前に何かが落ちてきた。(ゴーオという音と共に)
怖~いと言って手をはなしてしまった。
・・離ればなれ・・ に
でも・・・射撃訓練場の広場へ。・・・
家族と出会えた。 一安心。
広場の西側に沿って、軽便鉄道線がある。
線路脇に横穴式の防空壕がある。家族で避難。
大勢の先客。皆頭を抱えてうずくまっている。
どの位壕の中に居たのか、定かでない。
気がついたら、外が明るくなっていた。(一夜明けて、18日)
外に出てみた。訓練場には、大勢の人が放心状態。
焼夷弾の被害は無かった? ように見える。
けれど、横になっている人々が居られたのも見かけた。
後で判ったのですが、訓練場の周りの家屋は全焼している。
防空壕の中では、燃え落ちる家の様子、煙、気付かなかった。
避難してきた道路の両側の家屋は、跡形もない。
焼け跡から小さな煙が昇っていた。
我が家にたどり着いた。 辺り一面焼け野原。
鎮火して時間が経っていた故、足を踏み入れる事が出来た。
母が、かまどに向かった。
黒焦げの蓋を持ち上げた。中には、焦げながらもご飯が出来ていた。
おにぎりを食べられた喜びを、隣組の人達と共有できた。
公園内の防空壕へ避難した人たちも、変わりなかった。
無事を喜びあいました。
幸いな事に、空襲の犠牲者が出なかった事が、何よりでした。
何はともあれ、戦争の悲惨さは、子ども心にも重く伸し掛かりました。
現在の戦争のない平和な生活の有難さ実感。