日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-02-04 17:29:34 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(397)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その37)

  26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか

  しかしながら、迫害の時代にその貞節が汚されることを免れるため、急流に身を投じた聖女たちがいたと伝えられている。激流は彼女らを押し流し、彼女らは溺死した。彼女らは殉教者としてカトリック教会によって定められた時に尊崇され

ている。わたしは彼女らについて、性急な判断を下そうとは思わない。

  信憑するに足る十分な証拠に基づいて、何か心的権威を持つ当局者が教会を説得し、彼女らを記念する祝祭日を設定させるようにしたのかどうか、わたしにはわからない。しかし、もしそうだったとすればどうだろうか。彼らが人間的な過

ちを犯したからではなく、神の命令を聴いたからすなわち誤謬ではなく従順からだったとすれば、どうであろう。サムソンの場合はそうであったとわたしたちは信ぜざるを得な(前回はここまで)い。神が命令を下し、そして神が命じておられる

ことが明瞭である場合には、だれが従順を問題にできようか。信仰に基づく服従をだれが咎めることができようか。このことがアブラハムがかつて一度その息子を神に献げ、そして賞賛を受けたと言う理由だけで、だれでもが罪を犯すことな

しにそのような決心ができる、ということを意味しない。

 兵士が合法的に立てられた上官の命令に従って人を殺した場合、いかなる国法に照らしても (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-02-04 17:27:21 | 大分中央ウィークリー

創世記24章20節である。「すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走っていった。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。」という。何頭のらくだであったのか判らないが、徒歩で一千キロ、約1ヶ月に及ぶ旅路で

あった。少なくとも4~5頭のらくだを必要とするであろう。らくだへの思いやりの心、その切り替えの早さ、敏捷な行動に驚かない人がいるであろうか。

 

「すべてのらくだに水をくんでやった」という。幾度となく水汲み場とらくだの間を往復したのであろう。労を惜しまない彼女の行動力、腰の軽さにはここを読む読者のすべてに感動を与えないわけにはいかない。彼女は若く、美しいだけではな

かった。その人柄のよさを十分に表現していた。だれよりも僕が感動したであろう。

 

21節、「その間、僕は主がこのたびの目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」とある。アブラハムの僕にとっては、いよいよその「とき」が来たという大事な「とき」であった。神がどうお答えになるのか、僕

の願いどうりなのか、そうでないのか、つまり、彼女は「らくだにも飲ませてあげましょう」といって、その通りに成し遂げるうか、どうかであった。

 

その終わりまで、彼は黙ってその様子を見ていたという。心の中では、ほぼ間違いなく、初めのこの出来事から神の御心どおりである様子がそれとなく現れていたのであった。従って、この様子を見ている間、恐れ多くも、この出来事がまさに

神のお答えであることがはっきりして来たのであった。従って彼の心には、如何に語り掛けねばならないのか、次の言葉を考えていたのであろう。


牧 会 通 信

2017-02-04 17:13:35 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その13)

◯要するにみんな偉大で名高い聖職者と文人で、あの世界で同じ一つの罪で戯れたのだと知るがいい。

ブリシアン(6世紀のラテン文法学者)とフランチェスコ・ダ・コルソ(13世紀のフィレンツェの法学者)も、あの惨めな群と一緒だ、さらにあのような白癬(「ハクセン」皮膚病)が見たかつたら、(前回ここまで)

◯神の下僕の中の下僕によってアルノ(フィレンツェの別名)からバッキリオーネ(川の名)へ移され、そこで虐げられた神経を残して死んだあのものも見られるだろう。

  もつと話したいが、これ以上連立つて話しつづけることはできぬ、あ

すこに新しい煙が砂から立つのが見られるから。

  わたしが一緒になつてはならぬものたちが来るのだ。中にわたしがまだ生きてゐる、わたしの宝庫(原語「テゾロ」)をそなたに委ねる、頼むのはそれだけだ。」(つづく)

 

◯本日、2017年1月29日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「従順を学ぶ」という。聖書の箇所は詩編63編1~12節である。その3節、「今、聖所であなたを仰ぎ望み あなたの力と栄を見ています。」という。よくよく「従順」とは

何か、この聖句から考えてください。この詩は捕囚のバビロンで歌われたもので、故国エルサレム神殿で主なる神を礼拝したときを思い出して歌っている。主なる神への従順は、礼拝で最もよく現されたからであろう。捕囚の地で何があっ

たかわからないが、乱れた心を整えている。

 

◯写真は27日、牧師館の畑にやって来たジョウビタキ(雄、スズメ科)、はるばる中国東北地帯からの1月の渡り鳥、2月下旬に大分にいなくなる。オスは美しい茶褐色の胸毛の装いがあり、単独で餌場を探しまた行動するのが特色であ

る。