五、「教会とわたしたち」(397) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その37)
26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか。
しかしながら、迫害の時代にその貞節が汚されることを免れるため、急流に身を投じた聖女たちがいたと伝えられている。激流は彼女らを押し流し、彼女らは溺死した。彼女らは殉教者としてカトリック教会によって定められた時に尊崇され
ている。わたしは彼女らについて、性急な判断を下そうとは思わない。
信憑するに足る十分な証拠に基づいて、何か心的権威を持つ当局者が教会を説得し、彼女らを記念する祝祭日を設定させるようにしたのかどうか、わたしにはわからない。しかし、もしそうだったとすればどうだろうか。彼らが人間的な過
ちを犯したからではなく、神の命令を聴いたからすなわち誤謬ではなく従順からだったとすれば、どうであろう。サムソンの場合はそうであったとわたしたちは信ぜざるを得な(前回はここまで)い。神が命令を下し、そして神が命じておられる
ことが明瞭である場合には、だれが従順を問題にできようか。信仰に基づく服従をだれが咎めることができようか。このことがアブラハムがかつて一度その息子を神に献げ、そして賞賛を受けたと言う理由だけで、だれでもが罪を犯すことな
しにそのような決心ができる、ということを意味しない。
兵士が合法的に立てられた上官の命令に従って人を殺した場合、いかなる国法に照らしても (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)