日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-02-10 01:09:19 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(398)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その38)

  26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか

 

 兵士が合法的に立てられた上官の命令に従って人を殺した場合、いかなる国法に照らしても (前回はここまで) 殺人の罪ありとは見なされない。いな、もし彼がそうしなければ、叛逆と命令への不服従のかどによって有罪と宣せられるであ

ろう。しかし、もし彼が自分の意志で、自分の権能に基づいてそうするならば、彼は謀殺の罪に問われるであろう。それゆえに、命令されずに行えば処罰を蒙るその同じ行為も、命令された場合にこれを行わなければ、彼はかえって罰せられ

るであろう。司令官によって命令されたときでさえそうだとすれば、それが創造主御自身によって与えられた場合は、いかばかりであろうか。それゆえに、殺してはならないという誡命を知っている者も、ほかならぬ神がそれを命じられるとき

にはこれを行わなければならない。神の命令をないがしろにしてはならないからである。彼は留意しなければならないのは、神の命令が疑いの余地なく確かかどうかということである。

わたしたち相互の間の交わりを考えても、このような内的な知識に達するであろう。わたしたちはそれに関する情報を持たずしては、何事についても判断を下す権利を主張できない。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外

に、だれが知っていようか」(第一コリント二・二一)。(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-02-10 01:06:32 | 大分中央ウィークリー

創世記24章21節、「その間、僕は主がこのたびの目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」とある。アブラハムの僕にとっては、いよいよその「とき」が来たという大事な「とき」であった。神がどうお答えに

なるのか、僕の願いどりなのか、そうでないのか、つまり、彼女は「らくだにも飲ませてあげましょう」といって、その通りに成し遂げるか、どうかであった。

 

その終わりまで、彼は黙ってその様子を見ていたという。心の中では、ほぼ間違いなく、初めのこの出来事から神の御心どおりである様子がそれとなく現れていたのであった。従って、この様子を見ている間、恐れ多くも、この出来事がまさに

神のお答えであることがはっきりして来たのであった。従って彼の心には、如何に語り掛けねばならないのか、次の言葉を考えていたのであろう。

 

22節である。「らくだが水を飲み終わると、重さ半シェケルの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、」という。「らくだが水を飲み終わると」、ここにいたって、「祈った」(12~14節)通りであったことを見届け、ここで彼女

の行動をじっと見て確認することが出来たのであった。

 

彼はすぐに彼女を確保すべき行動に出た。それはまず、出発のときから用意してきた大事な贈り物を荷物の中から取り出した。それらは高価なものであった。重さ半シェケルの「金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しなが

ら、」という。「金の鼻輪」にしても「金の腕輪二つ」にしてもわざわざ取り出しながら話しかけた。それらは、彼の話の言い出し、次の一言で、嫁と決定したときの贈り物であった。


牧 会 通 信

2017-02-10 00:28:01 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)     ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その14)

◯神の下僕の中の下僕によってアルノ(フィレンツェの別名)からバッキリオーネ(川の名)へ移され、そこで虐げられた神経を残して死んだあのものも見られるだろう。

   もつと話したいが、これ以上連立つて話しつづけることはできぬ、あすこに新しい煙が砂から立つのが見られるから。

  わたしが一緒になつてはならぬものたちが来るのだ。中にわたしがまだ生きてゐる、わたしの宝庫(原語「テゾロ」)をそなたに委ねる、頼むのはそれだけだ。」(前回ここまで)

◯それから後を振向いて走り去つた、ヴェロナの競争(徒歩競争)で緑の絹布(勝利賞)を得るために、野原を突つ走る(徒歩)ものそつくりに、

  しかも負ける(最終着者には雄鶏)ものではなく勝つものそつくりに。

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その1)

◯わたしはすでに次の圏(たに)に落下する、水の轟きが聞こえるところにゐた、夥(おびただ)しい蜜蜂の巣箱が立てる騒音に似てゐた。(つづく)

 

◯本日、2017年2月5日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「僕のつとめ」という。聖書の箇所はマタイ24・42~51である。その44節、「人の子は思いがけない時に来る」といわれる。再臨の主がまだ来ない、と思うのは今日

の多くに人々。しかし「思いがけないい時に来る」という。この人生の何時どこでも主をお迎えする心の用意が必要なのである。車を運転していても人と話している最中でも です。

 

◯写真は2月1日、京都・西都教会で開催された大会伝道局理事会の二日目、串八白梅町本店、夕食直前の9名全員の写真。左から三番目が新理事長・田部郁彦(ふみひこ)先生。

理事長・田部郁彦(ふみひこ)先生。