日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2017-02-23 12:43:11 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(400)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その40)

   27.罪を避けるため自殺することは許され

    るか

わたしが前に述べたように、人が自らの死を招来する方が有益に思われるただ一つの理由が残されている。(前回はここまで)

それは快楽の誘惑によるにせよ、責めさいなむ苦痛によるにせよ、自らが罪に陥るのを防止するためである。もしこれが自殺の

理由になるならば、最良の策は洗礼を受け、新生の洗いによって清められ、すべての罪の赦しを受けた直後に生命を断つこと

である、と結論せざるを得なくなるであろう。すべての過去が拭い去られたその時こそは、あらゆる将来の罪に対して予防策を講

ずる好機と言うべきである。

   もしも自殺によって合法的にこれを果たしうるとしたならば、なぜこの時にしないのか。ひとたび洗礼を受けたそのときに、なぜ

人は自殺をはばかるのか。このように解放されておりながら、なぜ生きながらえ、再びこの世のもろもろの危険に陥るのか。自ら

の生命を断つことによって、これらすべてを避けることがたやすくできるというのに。「危険を愛する者は、その中に陥るであろう」

(シラクの知恵三・二六)と記されているではないか。なぜそのような多くの重大な危険を愛するのだろうか。あるいは、愛するとは

言わないまでも、少なくともこの世に留まることによって、それと直面する冒険をあえてするのか、正当にこの世に別れを告げる

こともできるというのに。

・・・だれかに~(つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-02-23 12:35:23 | 大分中央ウィークリー

創世記24章23節である。「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。お父様の家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでし

ょうか」と尋ねた。」という。多分カナンからの出発に際して、この僕は、主人の使いですから、主人アブラハムの親族関係をつぶさに聞いてい

たと思われる。それで「あなたはどなたの娘さんですか、教えてください。」という言い出しになったのであろう。あまりにも祈りの通りに驚きつつ、

ほぼ間違いなくアブラハムの親戚の一人であろうと予想したようである。

 

「泊めていただける場所があるでしょうか」とは、万が一、もし、間違ったときのことというより、何もかも知っているという立ち入り方を避けて、

わざと知らない部分を作って、時の旅人のように見せた言葉のように思われる。従って、一つ知らない部分を作って尋ねるのは、儀礼的な

質問であろう。そして彼女からの答を待った。

 

24節である。「すると彼女は、『わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答え、」という。このような状況の下でわたしたち

ならどうであろうか。「わたしの父はナホル、母はミルカといいい、その娘です。」と答えるのではなかろうか。役所に戸籍があるからそれで

よい。しかしこれはそうではない。族長時代の特色がよく現されているということであろう。

 

どこまでも一族のつながりによって人間としての存在感を共有していた社会なのであった。「ベトエルの娘です」というだけで名を言わない。

しかし僕には彼女の名は「リベカ」とわかった。すでにアブラハムには、ナホルに8人の子があり、その末っ子ベトエルはリベカの父となった

との報告があって、よく覚えられていた(22:23)。


牧 会 通 信

2017-02-23 12:27:48 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎  )       ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その2)

◯そのとき苛酷な苦痛の雨を浴びて通り過ぎる、一群の中から三人の亡霊が一緒に走り出て、わたしらに近づきながら

  めいめいに絶叫した、「立止まってくれ、服から察するとわたしらの邪悪な土地のものらしいそなたよ。」

  ああ、なんといふ傷がその五体に見られたか、づきづき新しいのと古いのと火に焼かれ傷口が!思ひだすだけでも苦痛だ。(前回ここまで)

  ◯その絶叫を聞くとわたしの師は立止まり、わたしに顔を向けて、言つた、「待つがいい、このものたちには礼儀正しくふるまってほしい。

この場所の自然が射放つ火がなければ、わたしは言ふだらう、走り出すのはこのものたちよりもそなたにふさわしいと。」

わたしらが立止まるなり、三人はまたきりのない悲鳴を発しはじめ、わたしらのところに達すると、三人で一つの輪を作つた、(つづく)

 

◯本日、2017年2月19日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「宝を天に」という。聖書の箇所はマルコ10・21、「イエスは彼を見つめ、

慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。

それから、わたしに従いなさい。」と。ここに「天に富を」の「富(「セッサウロン」)」はせっせと蓄えられた「富」のことをいう。口語訳聖書は「天に宝を」という。

イエスがお答えになると、彼は、青年(マタイ)でありユダヤ議会の議員(ルカ)であったというから、その将来嘱望されていた人物かもしれない。22節、「気を

落とし、悲しみながら立ち去った」と。なぜ、どうしてだろうか。大変難しい。

 

◯写真は2月17日、突然の暖かい陽気のために満開になった店先の梅鉢。春日浦のHIヒロセにおいて。