日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2018-05-29 00:55:51 | 大分中央ウィークリー

創世記25章20節である。「イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。」という。結婚したときに親戚になるところのそれぞれの紹介であるが、しかし全くの他人の家族が一つの家庭の中に入ってくることになるのが結婚である。そこに新しい争いが発生する。 

今日といえども同じである。他人が入ってくるという複雑な関係が発生することになる。肉親は肉親同士かばい合い、かばい合うがゆえに他人である関係の溝が深くなるという悲惨な関係である。ここでは、「アラム人ラバンの妹であった。」というところに、その複雑な関係が始まったのである。結婚と共に妻となったリベカの兄、ラバンとリベカの夫のイサクとの関係が、複雑になって来るのであった。 

21節である。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」という。「妻に子供ができなかったので、」という。今日でもよくある話である。妻をめとるということは、現代でも、先ずは子孫を残すことが第一の目的ある、といえば、必ずしもそうでないというしっかりとした反論が返ってきそうである。

 しかしこのアブラハムの古代もとより現代もまた後継者を残すのが大事な目的の一つであることは同じである。子を産めないと分るときは、夫婦はもとより一族全体の深刻な悩みになる。今日はいろいろ医学的に原因が突き止められ、子が生まれるように可能な限り原因を突き止めるが、しかし現代をも含めて、このイサクの時代にも、祈るという方策を欠かすことができない。神が可能な限りの改善をもたらすからである。


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