日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2017-02-10 01:06:32 | 大分中央ウィークリー

創世記24章21節、「その間、僕は主がこのたびの目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」とある。アブラハムの僕にとっては、いよいよその「とき」が来たという大事な「とき」であった。神がどうお答えに

なるのか、僕の願いどりなのか、そうでないのか、つまり、彼女は「らくだにも飲ませてあげましょう」といって、その通りに成し遂げるか、どうかであった。

 

その終わりまで、彼は黙ってその様子を見ていたという。心の中では、ほぼ間違いなく、初めのこの出来事から神の御心どおりである様子がそれとなく現れていたのであった。従って、この様子を見ている間、恐れ多くも、この出来事がまさに

神のお答えであることがはっきりして来たのであった。従って彼の心には、如何に語り掛けねばならないのか、次の言葉を考えていたのであろう。

 

22節である。「らくだが水を飲み終わると、重さ半シェケルの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、」という。「らくだが水を飲み終わると」、ここにいたって、「祈った」(12~14節)通りであったことを見届け、ここで彼女

の行動をじっと見て確認することが出来たのであった。

 

彼はすぐに彼女を確保すべき行動に出た。それはまず、出発のときから用意してきた大事な贈り物を荷物の中から取り出した。それらは高価なものであった。重さ半シェケルの「金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しなが

ら、」という。「金の鼻輪」にしても「金の腕輪二つ」にしてもわざわざ取り出しながら話しかけた。それらは、彼の話の言い出し、次の一言で、嫁と決定したときの贈り物であった。


牧 会 通 信

2017-02-10 00:28:01 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)     ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その14)

◯神の下僕の中の下僕によってアルノ(フィレンツェの別名)からバッキリオーネ(川の名)へ移され、そこで虐げられた神経を残して死んだあのものも見られるだろう。

   もつと話したいが、これ以上連立つて話しつづけることはできぬ、あすこに新しい煙が砂から立つのが見られるから。

  わたしが一緒になつてはならぬものたちが来るのだ。中にわたしがまだ生きてゐる、わたしの宝庫(原語「テゾロ」)をそなたに委ねる、頼むのはそれだけだ。」(前回ここまで)

◯それから後を振向いて走り去つた、ヴェロナの競争(徒歩競争)で緑の絹布(勝利賞)を得るために、野原を突つ走る(徒歩)ものそつくりに、

  しかも負ける(最終着者には雄鶏)ものではなく勝つものそつくりに。

ダンテの「神曲 地獄」編 16歌(カッコ内は筆子、その1)

◯わたしはすでに次の圏(たに)に落下する、水の轟きが聞こえるところにゐた、夥(おびただ)しい蜜蜂の巣箱が立てる騒音に似てゐた。(つづく)

 

◯本日、2017年2月5日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「僕のつとめ」という。聖書の箇所はマタイ24・42~51である。その44節、「人の子は思いがけない時に来る」といわれる。再臨の主がまだ来ない、と思うのは今日

の多くに人々。しかし「思いがけないい時に来る」という。この人生の何時どこでも主をお迎えする心の用意が必要なのである。車を運転していても人と話している最中でも です。

 

◯写真は2月1日、京都・西都教会で開催された大会伝道局理事会の二日目、串八白梅町本店、夕食直前の9名全員の写真。左から三番目が新理事長・田部郁彦(ふみひこ)先生。

理事長・田部郁彦(ふみひこ)先生。


プロテスタントとカトリック

2017-02-04 17:29:34 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(397)     近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その37)

  26.聖徒の中には違法行為を犯したものがあると言われている。その理由が何であったと信じたらよいのか

  しかしながら、迫害の時代にその貞節が汚されることを免れるため、急流に身を投じた聖女たちがいたと伝えられている。激流は彼女らを押し流し、彼女らは溺死した。彼女らは殉教者としてカトリック教会によって定められた時に尊崇され

ている。わたしは彼女らについて、性急な判断を下そうとは思わない。

  信憑するに足る十分な証拠に基づいて、何か心的権威を持つ当局者が教会を説得し、彼女らを記念する祝祭日を設定させるようにしたのかどうか、わたしにはわからない。しかし、もしそうだったとすればどうだろうか。彼らが人間的な過

ちを犯したからではなく、神の命令を聴いたからすなわち誤謬ではなく従順からだったとすれば、どうであろう。サムソンの場合はそうであったとわたしたちは信ぜざるを得な(前回はここまで)い。神が命令を下し、そして神が命じておられる

ことが明瞭である場合には、だれが従順を問題にできようか。信仰に基づく服従をだれが咎めることができようか。このことがアブラハムがかつて一度その息子を神に献げ、そして賞賛を受けたと言う理由だけで、だれでもが罪を犯すことな

しにそのような決心ができる、ということを意味しない。

 兵士が合法的に立てられた上官の命令に従って人を殺した場合、いかなる国法に照らしても (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968)


聖書研究

2017-02-04 17:27:21 | 大分中央ウィークリー

創世記24章20節である。「すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走っていった。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。」という。何頭のらくだであったのか判らないが、徒歩で一千キロ、約1ヶ月に及ぶ旅路で

あった。少なくとも4~5頭のらくだを必要とするであろう。らくだへの思いやりの心、その切り替えの早さ、敏捷な行動に驚かない人がいるであろうか。

 

「すべてのらくだに水をくんでやった」という。幾度となく水汲み場とらくだの間を往復したのであろう。労を惜しまない彼女の行動力、腰の軽さにはここを読む読者のすべてに感動を与えないわけにはいかない。彼女は若く、美しいだけではな

かった。その人柄のよさを十分に表現していた。だれよりも僕が感動したであろう。

 

21節、「その間、僕は主がこのたびの目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」とある。アブラハムの僕にとっては、いよいよその「とき」が来たという大事な「とき」であった。神がどうお答えになるのか、僕

の願いどうりなのか、そうでないのか、つまり、彼女は「らくだにも飲ませてあげましょう」といって、その通りに成し遂げるうか、どうかであった。

 

その終わりまで、彼は黙ってその様子を見ていたという。心の中では、ほぼ間違いなく、初めのこの出来事から神の御心どおりである様子がそれとなく現れていたのであった。従って、この様子を見ている間、恐れ多くも、この出来事がまさに

神のお答えであることがはっきりして来たのであった。従って彼の心には、如何に語り掛けねばならないのか、次の言葉を考えていたのであろう。


牧 会 通 信

2017-02-04 17:13:35 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 15歌(カッコ内は筆子、その13)

◯要するにみんな偉大で名高い聖職者と文人で、あの世界で同じ一つの罪で戯れたのだと知るがいい。

ブリシアン(6世紀のラテン文法学者)とフランチェスコ・ダ・コルソ(13世紀のフィレンツェの法学者)も、あの惨めな群と一緒だ、さらにあのような白癬(「ハクセン」皮膚病)が見たかつたら、(前回ここまで)

◯神の下僕の中の下僕によってアルノ(フィレンツェの別名)からバッキリオーネ(川の名)へ移され、そこで虐げられた神経を残して死んだあのものも見られるだろう。

  もつと話したいが、これ以上連立つて話しつづけることはできぬ、あ

すこに新しい煙が砂から立つのが見られるから。

  わたしが一緒になつてはならぬものたちが来るのだ。中にわたしがまだ生きてゐる、わたしの宝庫(原語「テゾロ」)をそなたに委ねる、頼むのはそれだけだ。」(つづく)

 

◯本日、2017年1月29日の日本聖書協会「聖書愛読こよみ」の主題は「従順を学ぶ」という。聖書の箇所は詩編63編1~12節である。その3節、「今、聖所であなたを仰ぎ望み あなたの力と栄を見ています。」という。よくよく「従順」とは

何か、この聖句から考えてください。この詩は捕囚のバビロンで歌われたもので、故国エルサレム神殿で主なる神を礼拝したときを思い出して歌っている。主なる神への従順は、礼拝で最もよく現されたからであろう。捕囚の地で何があっ

たかわからないが、乱れた心を整えている。

 

◯写真は27日、牧師館の畑にやって来たジョウビタキ(雄、スズメ科)、はるばる中国東北地帯からの1月の渡り鳥、2月下旬に大分にいなくなる。オスは美しい茶褐色の胸毛の装いがあり、単独で餌場を探しまた行動するのが特色であ

る。