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「野底マーペー」 沖縄の民話

2012年12月12日 00時13分46秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「野底マーペー」 沖縄の民話

 八重山は、沖縄本島から南へ およそ四百キロ、約20の島々からなり、
幾重にも折り重なって見える所から その名前がついたということです。

 今から250年程前、沖縄が琉球と呼ばれ、薩摩に支配されていた頃、
明和の大津波と呼ばれる大津波が押し寄せ、八重山に住む9000余の人々が
被害にあい 十村が半壊、その上 湿地帯の多い石垣島や西表島では マラリヤが発生して
住民のほとんどが亡くなりました。

 薩摩藩に税を差し出さなければならない首里の王府は非常に困ってしまい、
八重山に眠る広大な土地をなんとかせねばならないと思案にくれていました。
ちょうどその頃、石垣島から南に約17キロ離れた黒島では、
島の大きさの割に人口がどんどん増え、1300人余にもふくれあがっていました。

 周囲約12キロの隆起珊瑚礁で出来た山のないこの平らな島は、
水に乏しく稲は作れなかったため、人々は近くの西表島に渡って稲の出作りをして税を納め、
島中が一つになり助け合って暮らしていました。

 ある日、この島に首里王府の役人が急にやってきました。
役人は島の中央の十字路に杖を立て、「この杖で道切(みちきり)をする。
どの方角に倒れても、文句を言わずに石垣の野底に行け。」と命じました。
当時はこの道切の方法で島民を移住させたため、道を隔てて住んでいた仲の良い兄弟、
親子、愛し合う者を一度に引き裂いて、寄せ人として強制移住させられました。

 これまでにも島人は懸命に頼んだことがありましたが、取り合ってもらえず、
役人の命に背くことができませんでした。
村人は息を殺し、杖の倒れる方向を見守りました。
その中に、将来を固く約束しあった気立てのやさしい娘マーペーと
働き者の青年カニムイの姿もありました。

 共同作業の時も、西表への出作りの時も二人は片時も離れることなどありませんでした。
杖の倒れ具合で共に島に残れるか、さもなければどちらかが野底へ行かなければなりません。

 ところが、その杖はマーペーとカニムイとを引き裂くように道を挟んで
向かいあう二人の家の間の道の方に倒れました。
こうしてマーペーは島を離れなければならなくなりました。

 野底は石垣島の裏手にあり、水は豊富で土地は肥えているものの住む者もいない
密林地帯で、野底へ移った400人余の黒島の人々は、木を切り、家を建て、荒れた土地を耕しました。
目の前に見えるのは果てしなく広がる東シナ海、後ろには標高およそ280メートルの険しい野底岳、
黒島は山の陰となり見ることもできません。

 マーペーは、いつか黒島に帰れる、カニムイが迎えに来てくれる、
そう信じてくる日もくる日も一心に働き続けました。
しかし、寄せ人で移された者はどんなことがあっても決して元の島に帰ることができませんでした。

 七夕の夜には、ウヤキ星(彦星と織姫)でさえ会えるのにと、
マーペーは夜空を仰ぎながら、カニムイへの思いを募らせていました。
今まで誰も住んでいなかった野底は、緑豊かに作物もだんだん実りだしてきました。

 ところが、夏の暑さが激しくなり始めた頃から高熱と寒気が繰り返し襲い、
だんだん痩せ衰え死んでいく風土病マラリヤにかかる人が増えました。
そしてマーペーも発熱して倒れてしまいました。
なんとか悪い病気を振り払い、村を明るくしようと人々は、生まれ島黒島の歌を歌い、
祭りを行うことにしました。

 祭りの夜、三味線や歌が聞こえてくると、マーペーは幼い頃、
祭りの日に過ごしたカニムイとのことが思い出され、いてもたっていられず、
こっそり村を抜け出しました。
「あの野底岳に登ればカニムイの住む黒島が見える。」
マーペーは、熱で震える体を自ら励まし、転んでは起き、起きては転びながらも、
一歩一歩草に木に岩にしがみつき、必死に登りました。

 険しい岩山をやっとの思いで登りつめたマーペーは野底の頂に立ちました。
息を切らせ南の方に目をやったマーペーは、愕然として座り込みました。
目の前には標高520メートル、沖縄最高峰の大本岳(おもとだけ)がたちはだかり、
島影すら見えることはできません。マーペーは手を合わせ、ただ祈りつづけました。

 翌朝、村では姿の見えないマーペーに気づき、必死で探し回りました。
日頃、黒島が見たいと口癖のようにマーペーが言っていたので、
もしやと思い両親や村人は野底岳へ急ぎました。

 ちょうど山の頂に来た時、手を合わせ黒島を向いて祈るかのように立っている
不思議な石を見つけました。
それを見た村人たちは、「チィンダラサーマーペー(可哀相なマーペー)。
殿原と思い枝葉を伸ばして黒島を眺めよ。」とまるでマーペーに語るかのように
その石の隣に松を植えました。

 その松は殿原松と呼ばれ、大本岳より高く黒島の方へその枝を伸ばし、
それからこの山は野底マーペーと呼ばれるようになりました。
  
  とぅばらまとぅばんとぅや(あなたと私は)
  やらびから遊とぅら(幼い頃からの遊び友達でした)
  かぬしゃまとぅくりとぅや(おまえと私とは)
  いみしゃからむちりとぅら(幼い頃からの親しい仲でした)
  天からぬぴきめうるオヤキ星で(天上を渡るオヤキ星は)
  いそかやならぶれば定めうり(夫婦の仲が定められて)
  いかゆんでどしかりるとばらまと(一年に一度行き会う)
  ばんとやふれさたいかひみゆな(私達は会うこともできない)

  今もマーペーの故郷の黒島では、
この悲しいマーペーのことをチンダラ節として歌いつづけています。


 当民話は、沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授のご厚意により掲載させて頂いております。
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