中島敦と身体のふしぎ ネットより http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/nakajima.html
「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その7
思うに、「引き算の修行」が目指すものというのは、このすべての意識がどこにも重心がかかることなく、完全にニュートラルな位置にある状態に、任意で入っていけるということではないのだろうか。そう考えていくと
木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。
という表現が非常に納得がいくのである。つまり、知覚のどこにも意識のウェイトがかからず、何かひとつに焦点化しているわけではない。「力」が身体のどこか一箇所にかかっているわけでもなく、どこかが緊張しているわけでもない。こういう身体が完全にニュートラルな状態のことを言っているのではないかと思うのだ。
この状態に至って解き放つのが「フォース」なのか「不射之射」なのか、はたまた何も解き放たないのかもしれない。ともかく「名人」の境地というのはこういうものではないかと思うのである。
こういう状態を「心身脱落」と呼んではダメかしら?
「足し算か引き算か」 ―『名人伝』に見る教育 その7
思うに、「引き算の修行」が目指すものというのは、このすべての意識がどこにも重心がかかることなく、完全にニュートラルな位置にある状態に、任意で入っていけるということではないのだろうか。そう考えていくと
木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。
という表現が非常に納得がいくのである。つまり、知覚のどこにも意識のウェイトがかからず、何かひとつに焦点化しているわけではない。「力」が身体のどこか一箇所にかかっているわけでもなく、どこかが緊張しているわけでもない。こういう身体が完全にニュートラルな状態のことを言っているのではないかと思うのだ。
この状態に至って解き放つのが「フォース」なのか「不射之射」なのか、はたまた何も解き放たないのかもしれない。ともかく「名人」の境地というのはこういうものではないかと思うのである。
こういう状態を「心身脱落」と呼んではダメかしら?