民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「五十歳」 森本 哲郎

2014年09月21日 00時26分22秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「五十歳」 P-29

 前略

 新聞記者というのは、報道にたずさわる職業である。それはそれなりに貴重な体験を私に与えてくれたのだが、新聞記事を書くということは、文章から徹底的に「私」というものを抹殺することだ。報道は、あくまで客観的でなければならない。だから文章から主観である「私」を取り除いて、冷静に事実そのものを伝えねばならぬ。当然の話である。その使命の大切なことも、私は充分承知していた。だが、私はそのような「報道」といういわば「無私」の文章を書きつづけるのがいやになってしまったのである。そして、もっと自由に「私」を表現してみたい、「私のいる文章」を書きたいと思って、記者生活を打ち切ることにしたのだった。

 中略

 さきに述べたように、私は新聞記事という客観的な「無私」の文章を書きつづけるのに耐えられなくなり、もっと自由に「私」を表現したいと思って新聞社をやめたのだが、私が愕然としたのは、「私のいる文章」を書くのが、いかにむずかしく困難であるか思い知らされたことだった。「私のいる文章」とは、「私は・・・・・と思う」という形の文章である。

 これは、一見たやすいように思えるが、途方もなく苦労を強いる作業なのである。私は小学生のころから、それを知っていたはずだ。作文の時間に、先生から「自分の思ったとおりに書きなさい」と教えられ、作文なぞ、かんたんにできると早合点したのだが、とんでもない話だった。私はそれこそ、いろいろなことを思ってはいたが、自分が何を、どう思っているか、それがきわめて漠然としており、あいまいきわまりない体(てい)のものだったからである。なにも子供に限らない。ふだん、人間が頭の中で意識しているのは、ただ気分だけなのであり、それはそのまま文章などになりはしないのである。だから、作文というのは、思ったことを文章にするのではなく、それこそ思いを新たにして、文をつくりだすことにほかならない。

 私は「私のいる文章」を書きたいと思ったのだったが、それには、その私が「何を、いつ、どこで、どのように」思ったのか、さらに「なぜ」そう思うのかをはっきりさせねばならない。私は自分を表現したい、などといいながら、かんじんな「私」が、いかに漠然とした意識しか持ち合わせておらず、あいまいな気分に浸(ひた)されているにすぎないかを自覚して、ホトホト自分を持て余すようになってしまった。そして、それは自分の「教養」がまだまだ不完全なものでしかないからなのだ、と思い知らされた。自分をつくり直すこと、充分に教養を身につけること、私は何度もそうつぶやいた。

 五十歳という年齢こそ、自分をじっくりと反省し、今後に備える重要な節目だと、私はいまさらのように痛感するのである。