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「なにぶん老人は初めてなもので」 その2 中沢 正夫

2017年08月26日 00時13分15秒 | 健康・老いについて
 「なにぶん老人は初めてなもので」 その2 中沢 正夫 柏書房 2000年発行

 中沢正夫 紹介
 1937年群馬県に生まれる。精神科医。「探検隊」員として椎名氏らと怪しき活動を行う。

 日本に老人文化は開花するか――隠居の条件 その1  P-11

 前略

 (だから)昔の老人は、今よりはるかに頑健であったといえる。5人に1人は死ぬという乳幼児期をくぐりぬけ、結核や赤痢でも死ななかった個体であった。その上、今よりもはるかに歩き、体を使い、質素な食に耐えていた。
 だから、隠居とは庇護される存在ではなく、身も心もまだ強い個体であった。江戸時代、隠居の年齢は自分で決めるものであったが、武士では、家督は譲ってもなかなか役職を解いてもらえない人もいた。定年はなかったのである。

 そういうサバイバル・ゲームに生きのこった隠居の上に、隠居学は成立していたのである。金も実力も技術ももっていたのである。だから当時の隠居学は、落語でおなじみの長屋の隠居のように余技、下手な横好き傍迷惑といったレベルでなく、もっと本格的な技芸、それも一流の領域に達していた。
 だから、老人は尊敬されたのだし、老いというものに価値を与える社会であった。文化的にも、敬老精神が根づいていた上、生き方としても、若いうちは苦労して楽しい老後を迎えることが大切をされていた。

 環境破壊、内分泌かく乱物質、エイズなどによって、今後、日本人の平均寿命は確実に下がっていくと考えられるが、今のところ、大勢の人が70,80歳まで生きることは現実である。
 しかし、この現実の上に、隠居学が花咲くかと問われるなら、今のところNO!である。
 今の老人は、かつてほど心身ともに頑健ではない。ヘトヘトにつかれている。その上ないないづくしである。金がない、ゆとりがない、出番がない。そして何よりも老いというものに価値を与えない社会である。

 長い時間、生き、その間にさまざまな体験をし叡智をもっている老人に価値をみとめない社会風潮の上に隠居学が花咲くだろうか。


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